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共同通信に対する「受話器マーク」の著作権問題に関するコメント(平成23年12月2日)
[1] 今回の事案(週刊誌記事)に関する所見
[1-1] 今回の事案に即して言うと、原告側の受話器マーク(以下、「原告受話器マーク」と言います。)についてその著作権侵害に基づく損害賠償請求が認められるためには、主として、次の3点が争点になります。
① 原告受話器マークに著作権が発生しているか、換言すると、原告受話器マークは著作権法に規定する「著作物」に該当するかどうかという点。
② 被告側の受話器マーク(以下、「被告受話器マーク」と言います。)が原告受話器マークを「複製」したものかどうかという点。
③ そして、この点については週刊誌記事の中に一切出てきませんが、被告受話器マークが原告受話器マークに「依拠」して作成されたものかどうかという点。
原告側から見ると、まずは最低限以上の3点がクリアされなければ、原告受話器マークの著作権侵害に基づく損害賠償は認定されません(損害賠償が認定されて、所定の賠償金の支払い命令を獲得するには、被告側の故意過失の有無や損害賠償請求権の消滅時効の問題等、裁判実務上、以上の他にもクリアしなければいけない要件がいくつかあります。)。
[1-2] 週刊誌記事を見る限り、福岡地裁の判断は、上記①の点ですでに分かれています。つまり、そもそも原告受話器マークに著作物性(創作性)が認められるか否かという点です。著作物性(創作性)が認められなければ原告受話器マークに著作権は発生していないことになります。
そして、仮に、原告受話器マークに著作物性(創作性)が認められる場合にも「デッド・コピー」(丸写し)でない限り、原告受話器マークの著作権(複製権)を侵害することにはならない、つまり、上記②の点において、被告受話器マークは原告受話器マークを「複製」したものではないと判示しています。
(注)文化庁及び米国連邦著作権局への「登録」と著作物性の認定について
週刊誌記事中のコメントには大分誤解があるようです。現在著作権法の分野で国際的に主流の考え方は、「無方式主義」と呼ばれるものです。これは、著作権は、どこかの公的な機関に登録することなく、著作物の創作と同時に自動的に発生するという考え方です。わが国や米国等主要国には著作権を「登録する制度」はありますが、これは別の観点(制度趣旨)から設けられているもので、著作物性の認定とは関係ありません。つまり、ある作品が文化庁や連邦著作権局に「正式」に「登録」されているからといって、そのことから直ちに、その作品は法律上の著作物であり、よって、著作権が正式に発生していることの「お墨付き」にはなりません。ちなみに、わが国はもちろん、著作権登録が盛んな米国でも、著作権の登録は方式的な要件の審査のみで行われ、行政当局が著作物性を判断するような実質的な「厳密な審査」は行われません。原告受話器マークが「美術の著作物」として文化庁に正式に登録されていても、そのことと、当該原告受話器マークが実質的に著作物性を有するかどうかとは全く別個の問題なのです。したがって、文化庁への正式な登録をもって著作物性ありとするのは、大変な誤解です。
[1-3] 発明が特許として認められる場合などと比べると、「著作物」であるために要求される創作性の程度は高くありません。創作性が認められるためには「厳密な意味で独創性や新規性が発揮されている必要はなく、作者の何らかの個性が表現されていれば足りる」とするのが多数の裁判例です。しかし一方で、「表現形式に制約があるため、他の表現が想定できない場合」や「表現が平凡かつありふれたものである場合」、「誰が作成しても同様の表現となるような場合」には、作者の個性が現われていないものとして創作性がない、つまり、著作物ではないとされます。今回の事案で裁判所の判断が分かれたのは、原告受話器マークが見る者によっては「平凡でありふれた」ものだと捉える裁判官もいたからです。
私見としては、週刊誌記事の原告受話器マークを見る限り、創作性はない、つまり、そもそも著作物ではない(したがって著作権も発生していない)、との感触を受けます。
[1-4] それでは、百歩譲って、原告受話器マークに創作性が認められ「著作物」に該当すると認定される場合、原告受話器マークには著作権が発生し、現在もそれが有効であることになります。もっとも、かろうじて創作性が認められるような著作物では、一般的に、その保護範囲は非常に狭いものとして認定される傾向があります。今回の事案で「権利侵害はデッドコピーの場合にしか成立しない」(デッドコピーであれば著作権侵害となり得る)としたのは、以上のような事情があるからです。
[1-5] 著作権侵害事件では、上記③の「依拠性」の要件もクリアしなければなりません。平たく言うと、「まったく同じものであっても、一方が他方に依拠して作成したものでない限り、著作権侵害はあり得ない」というものです。
以下、最高裁(昭和53年09月07日最高裁判所第一小法廷判決(昭和50(オ)324))の考え方です。
「著作物の複製とは、既存の著作物に依拠し、その内容及び形式を覚知させるに足りるものを再製することをいうと解すべきであるから、既存の著作物と同一性のある作品が作成されても、それが既存の著作物に依拠して再製されたものでないときは、その複製をしたことにはあたらず、著作権侵害の問題を生ずる余地はないところ、既存の著作物に接する機会がなく、従つて、その存在、内容を知らなかつた者は、これを知らなかつたことにつき過失があると否とにかかわらず、既存の著作物に依拠した作品を再製するに由ないものであるから、既存の著作物と同一性のある作品を作成しても、これにより著作権侵害の責に任じなければならないものではない。」
したがって、原告受話器マークを「デッドコピー」している会社や企業があっても、彼らが「原告受話器マークに接する機会がなく、従って、その存在、内容を知らなかった」場合には、著作権侵害の責めを負うことはありません。今回の事案ではこの依拠性まで争点にする必要がなかったと思われます。
[2] 今回の事案が暗示するもの
[2-1] 今回の事案に関する控訴審はもちろん、「デッドコピーをしている」企業に対する別訴においても、原告側の主張が認められる可能性は低いと思います。ましてや、「1兆円を超える」ような多額の賠償金を命じる判決が出される可能性はまずあり得ないでしょう。
[2-2] 特に米国ではこれまで「パテント・トロール」(中小ベンチャー企業や個人などから休眠特許などを安く買い集めて、有名大企業に特許権侵害訴訟を大量に仕掛けて、賠償金や和解金を獲得するビジネス)が横行してきました。しかしながら、このような「ビジネスモデル」に対しては、本家の米国ですら近時これを「規制」する動きが加速しています(例えば、日本経済新聞2011年11月28日付「法務」面の記事を参照してください。)。また、「特許権」と「著作権」とはともに「知的財産権」の分野に属する点で共通しますが、権利の及ぶ範囲(保護範囲)ということになると、両者には決定的な違いがあります。つまり、特許権は「抽象的な技術的な思想(アイディア)」を保護客体としているため、その権利の及ぶ範囲が事情によっては「度を超えて広く」認定されてしまう場合があります。これに対し、著作権は「具体的な表現そのもの」を保護客体としている(つまり、抽象的なアイディアを一切保護しない)ため、その権利の及ぶ範囲は特許に比べると限定的に捉えられます。さらに、わが国と米国では、そもそも「訴訟文化」に違いがあります。これらのことから判断すると、「コピーライト・トロール」なる「ビジネスモデル」がわが国で成り立ち、定着できる可能性は非常に低いのではないかと考えます。もちろん、今回のような事案が今後とも起こりうることは否定できませんが、著作権ビジネスとして成り立つか、という話になると、現状ではやはり、非常に疑わしく思っています。
[2-3] 今回の事案では、「著作権の登録」が1つの重要なキーワードになっているように思います。事実、原告側は、原告受話器マークが「文化庁に正式に登録されている」ことを重要視しているようです。しかし、この登録にそれほどの意味がないことは前述した通りです。ただ、これも、著作権に精通している者の中の話であり、一般人にとってみれば、「文化庁」という国の著作権担当部局が「正式」に「登録」したものであれば、その権利は本物であるに違いない、と思ってしまうのも無理のないところです。実はここに大きな落とし穴があります。3年ほど前、ある著名な音楽プロデューサーの巨額詐欺事件が世間を騒がせました。この事件も、著作権の登録制度の盲点を巧みに突いたものでした。
大企業に著作権侵害訴訟を大量に仕掛けて、賠償金や和解金をせしめないまでも、個人や中小零細企業から著作権を買い集め、これを「正式」に文化庁や海外の当局に登録し、その「登録証」(これ自体は本物です。)を相手に見せつけて、相手方の無知に乗じて、法外な著作権使用料を要求したり、その買い取りを強要するような「ビジネス」が行われる事態は大いに想定されます。このような事態に企業が適切に対処するには、まずは、根拠のない風説に惑わされることなく、著作権に関する「正確な法律上の知識」をしっかりと仕入れておくことが肝要です。
以上