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著作権判例セレクション
【言語著作物の侵害性】調査報告論文(新聞掲載手記)vs.長大な古文書(偽書)▶平成7年2月21日青森地方裁判所[平成4(ワ)344]▶平成9年1月30日仙台高等裁判所[平成7(ネ)207]
一 被告Aの訴え却下の申立てについて
被告Aは、本件訴訟は、文書の真贋論争を目的とするもので司法審査になじまないから、却下されるべきであると主張する。
しかし、原告の請求自体は、著作権侵害に基づく損害賠償、謝罪広告の掲載、著作権侵害の差止の各請求で、いずれも私法上の権利義務に関する請求であるから、その当否の前提として古文書の真贋が問題となるとしても、司法審査になじまないものではない。
また、著作権侵害の差止訴訟において、著作権を侵害する書籍が絶版で増刷の予定がないからといって、そのことゆえに直ちに訴えの利益がないものとは認められない。
したがって、被告Aの訴え却下の主張はいずれも理由がない。
(略)
九 日本経済新聞の記事の剽窃について
1 「東日流外三郡誌」について
(証拠等)によれば、以下の各事実が認められる。
(一)東日流外三郡誌は江戸時代後期に秋田孝季によって執筆された368巻にも及ぶ長大な史書であり、その写本がA家に代々保管されており、A家の末裔である被告Aが所蔵しているとされているが、これについては偽書であると指摘する古代史家も存在する。
(二)有限会社北方新社から発行された「東日流外三郡誌」第一巻ないし第六巻及び第七巻にあたる「補巻」並びに津軽書房から発行された「総輯東日流六郡誌」は、いずれも被告Aが原書を提供して出版されたものであり、これらの書籍には、別紙のとおり原告が主張する記載部分が存在する。
2 次に、前記のとおり原告が日本経済新聞に掲載した本件新聞記事は、著作権法10条1項1号の言語の著作物であり、原告が著作権を有するものと認められる。
3 ところで、原告が剽窃の根拠として指摘する前記各書籍中の各記載部分は、いずれも本件新聞記事中の記載と内容的には一部似通っている点があると評価できなくはないが、文体、表現方法、使用語句などはかなり異なっている。また、前記のとおり「東日流外三郡誌」は長大な史書の体裁をとっているのに対して、本件新聞記事は別紙のとおり熊野地方の本件石垣についての調査結果を記載した手記のようなものであり、両者は本質的に全く異なるものである。
したがって、前記各書籍中の一部に本件新聞記事と内容的に一部似通った記述が存在するとしても、これをもって前記各書籍が、原告の本件新聞記事を複製または翻案して作成されたものであるとは到底認めることが困難である。よって、「東日流外三郡誌」等の成立経緯、内容等に立ち入って判断するまでもなく、原告の本件新聞記事の著作権侵害の主張は理由がない。
[控訴審]
二 本件論文について
1 本件論文の著作権
(証拠等)によれば、控訴人が本件論文を発表したことが認められ、また本件論文はその内容に照らして著作物に当ることが明らかであるから、控訴人がその著作権を有すると認められる。
2 著作権侵害の有無
(一)控訴人は、「東日流外三郡誌」は、被控訴人Aによる偽作であり、その中において控訴人による本件論文を剽窃、盗用し、複製権又は翻案権を侵害した旨主張する。
(証拠)によれば、以下の事実が認められる。
「東日流外三郡誌」は、被控訴人らの説明によれば、「東日流内三郡誌」「東日流六郡誌」などとともに、前九年の役に敗れた安倍氏の末裔の安東一族の歴史と伝承とを中心的内容とする全368巻に及ぶ長大な史書であるとのことであり、江戸時代末期に安東家の後裔のGとその縁者のHが日本全国を回り、安倍氏、安東氏にかかる様々な伝承を収集記録して編纂され、その原本はG家に伝えられ、写本がH家に残されていたが、G家の原本は消失し、現在はA家にのみその写本が残されているとされている。これらはA家において門外不出、他県無用とされて秘蔵されてきたが、戦後被控訴人Aにより発見されたといわれ、これが昭和50年から52年までに青森県北津軽郡市浦村から「市浦村史資料編」として三巻に分けて刊行され、また昭和58年から61年にかけて弘前市の有限会社北方新社から全七巻が、平成元年には株式会社八幡書店から全六巻が刊行された。
これに対して「東日流外三郡誌」等は被控訴人Aによる偽書であると主張する者があり、右偽書説の根拠としては、①A家において昭和23年頃に天井裏から写本が発見されたという経緯が極めて不審であり、②記述の内容に明治時代以降用いられるようになったと思われる表現、用語が随所に見られ、③写本は被控訴人Aの曾祖父の筆写によるとされているのにその筆跡が被控訴人Aのそれと酷似していることなどを始めとするさまざまな疑問点が指摘されている。
ところで、控訴人の主張する本件論文の著作権侵害は、「東日流外三郡誌」が被控訴人Aの執筆にかかることを前提とするものであるところ、同被控訴人が本件写真を前記のように用いていることのほか、右偽書説の根拠として主張されている点と、これに対する被控訴人Aの対応、反論とを対照して、本件各証拠上の裏付の有無を検討すると、右偽書説にはそれなりの根拠のあることが窺われるものの、このような一面で学問的な背景をもって見解の対立する論点に関して、訴訟手続において提出された限られた資料から裁判所が判断するのは、それが争訟の裁判を判断する上で必要な場合には当然行うべき筋合いではあるが、結論を導くのに不可欠とはいえない場合には、これを差し控えるのが相当であると考えられる。そこで、とりあえず右の判断はひとまず留保した上、「東日流外三郡誌」等にある記述中控訴人の指摘箇所が控訴人の有する本件論文の著作権を侵害するような、著作物としての同一性を有するものであるか否かをまず検討することとする。
(二)控訴人が原判決別紙において控訴人の指摘する個々の各記述の類似性について検討する。
(1)東日流耶馬台城跡
控訴人主張の記述は、(証拠)によれば、青森県にあったとされる東日流耶馬台城の情景であることが認められ、熊野地方等の本件石垣に関する本件論文の内容とは異なるものである。
もっとも、右記述のうち、控訴人が指摘する石垣に関する記述については、山中の石垣という点において確かに本件論文の記述に類似しているといえるが、「東日流外三郡誌」の記述は城跡に存する石垣であるのに対して、本件論文のそれは構築された理由や過程の不明な謎の石垣であるというのであるから、前記の記述が本件論文にヒントを得たという余地はあるにしても、これを翻案したものであるとまで直ちに認めることはできない。
また、神武東征伝承に関わる類似点についても、右伝承は日本書紀の記述にあるもので、本件論文における控訴人の創作にかかるものではないから、これが控訴人の著作権を侵害するようなものであると解することはできない。
その余の情景描写の類似を指摘する点についても、これらの多くは山中の情景描写として特異なものとは認め難いものであって、その全体を総合しても本件論文を翻案したものと認めることはできないし、また、本件写真(①)との類似を指摘する点については、右写真は本件論文中に引用されているものではないので、失当である。
(2)耶馬台城之大秘道しるべ
控訴人主張の記述は、(証拠)によれば、耶馬台城を飯積山庄屋から石垣の城跡を聞いて探し当てた経緯に関するものであることが認められ、右記述が控訴人の指摘する本件論文中の控訴人が本件石垣の存在を聞き及んだ経緯の記述との部分的な類似性は否定できないにしても、土地の伝承を聞いたことから遺物を発見するに至るとの筋立てや、山中で日が暮れるといった描写自体はありふれたものであるし、また、本件写真①との類似の指摘は前述の理由で失当であり、その他指摘の部分が本件論文の翻案であると認めることはできない。
(3)耶馬台城跡図
この点に関し、控訴人は本件写真⑥との類似を指摘するに止まるが、右写真は本件論文中に引用されているものではないから、失当である。
(4)耶馬台城址之伝
控訴人は、東日流耶馬台城の石垣の現実性を高めるために「東日流及び紀州のみに実在なして」との記述に及んだなどと指摘するが、熊野地方の山中に石垣が存在するとの事実自体は控訴人の思想、感情の表現とはいえない(現に被控訴人Bにおいてもこれを紹介する記事を雑誌に掲載している)、のであるから、控訴人の著作権を侵害するようなものには該当しない。
(5)耶馬台国之崇神
控訴人主張の記述は、(証拠)によれば、耶馬台国の宗教に関するものと認められるところ、その指摘するところは、耶馬台国で石垣を築いて神に奉納した旨の記述及び石垣の挿絵に「紀州」と付記されているのが本件論文の紀伊半島にある石垣の記述に依拠したというものである。しかし、紀伊半島に石垣の存在すること自体は本件論文において報告されている事実にすぎないし、また、本件論文の触れる神域説も、控訴人の本件石垣に関する推理の一つとして想定し得る結論のみを抽象的に述べたに止まり、他方「東日流外三郡誌」の前記記述は信抑と石垣との関連を多少なりとも具体的に述べたものであることなどからすると、右記述は本件論文にヒントを得たと見る余地はあるにしても、これが翻案であり、著作権を侵害するようなものであるとまでいうことはできない。
(6)東日流往古之謎史跡尋抄
控訴人主張の記述は、(証拠)によれば、東日流中山に耶馬台城跡を発見した経緯に関するものであると認められるが、控訴人指摘のうち山中の情景描写は何ら特徴のあるものでないし、飛鳥山についても本件論文にある飛鳥神社に名を借りたと解するのは根拠が十分ではなく、仮にそうであるとしても、それは控訴人の思想、感情の表現とは無関係の事柄である神社の名称にヒントを得たに止まるというべきであるし、また、本件写真②に依拠したと主張する点は、右写真は本件論文中に引用されているものでもないから失当であり、さらに、遺物の出土に関する点は遺跡の発見に関する記述である以上当然予想されるものであるから、これが本件論文に依拠したと推認することは困難である。
(7)総輯東日流六郡誌・紀州熊野宮之由来
控訴人主張の記述は、(証拠)によれば、熊野宮の由来につき、耶馬台国の水社であって、初代国王が神域に石垣等を築いたとされており、その石垣の挿絵に「熊野山中十五里の石垣」と付記されているものであると認められるが、控訴人の指摘する本件論文にある本件石垣に関する神域説と右記述の類似は否定できないにしても、右は前記のとおり控訴人の本件石垣に関する推理の一つとして想定し得る結論のみを抽象的に述べたに止まるのであるから、これが熊野宮に関する前記記述のヒントとなっていることは考えられるとしても、未だ翻案として著作権を侵害するようなものとまではいえない。また、挿絵に付された「熊野山中十五里の石垣」との記述については、本件論文の六〇キロメートルに及ぶ石垣という記述と、石垣の長さの点において、一里を三・九二七三キロメートルとして換算すると約五八・九キロメートルとなり極めて近似するものということができるが、熊野山中の長大な石垣の長さを江戸時代に書かれたとされる文献において表現するとすれば、自ずと限られた範囲内での一定の数値を採用するほかないのであるから、その中で一五里という数値が採られたからといって、これが控訴人の本件論文の記述に依拠しているものと直ちに推認することは困難である。
(三)以上検討したとおり、控訴人主張の「東日流外三郡誌」等の個々の記述から見て、それが本件論文と著作物としての同一性を有すると判断することは困難であるが、さらに「東日流外三郡誌」全体と本件論文とを対比して検討するとしても、前者は長大な史書の体裁をなすものであるのに対して、後者は本件石垣の調査結果の報告論文である点で全く異なる上、前者が古代日本に存したとされる耶馬台国及び耶馬台城の石垣に関するいわば伝説的な記述であるのに対し、後者は熊野地方に存する石垣の客観的な性状を探求してそれが構築されるに至った理由、過程を学問的に探求しようとするものである点においても全く異なるのであるから、全体的な対比においても、著作物としての同一性を肯認することは到底困難であり、結局、前者には後者の記述にヒントを得たと見られる部分があるという程度に止まるというべきである。
(四)したがって、「東日流外三郡誌」等の記述が本件論文の複製であることはもちろん、翻案であると認めることもできないのであるから、控訴人の有する著作権を侵害することを前提とした本件論文に関する請求は、「東日流外三部誌」等の著作者が誰であるかの判断に立ち入るまでもなく、理由がないことは明らかである。