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  著作権判例セレクション
   同一の原書からの2つ翻訳文の侵害性が争われた事例
  
  
  ▶平成3年02月27日東京地方裁判所[昭和59(ワ)11837]▶平成4年09月24日東京高等裁判所[平成3(ネ)835]
  
  (注) )原告は、昭和58年2月から、かねてより関心をもち、研究をしていたフランスの作家Cの作品の一つで、1955年に出版された「Lanuit de Saint-Germain des-Pre′s」(以下「本件原書」)の翻訳を始め、同59年1月初めころまでにその翻訳を終え、「サン・ジェルマン・デ・プレの夜」という題号を付した(「原告翻訳文」)。
  
  
  三 そこで、右争いのない請求の原因3の被告らの行為が、原告が原告翻訳文について有する複製権及び氏名表示権を侵害するものであるか否かについて判断する。
  
  (略)
  
  右認定の事実によれば、被告Bは、被告翻訳書の原稿とほぼ同一の内容の翻訳文を、原告が原告翻訳文の執筆を始めたと主張する昭和58年2月より以前に発表していたのであり、しかも、その内容は、原告翻訳文の当該部分と比べ、同一の原書の翻訳文としては、非常に異なる文体の表現であると認められる。このことは、右三1の認定判断のうち、被告Bが、昭和57年中に本件原書の初めの部分を試訳し、これが被告翻訳書の原稿として使用されたという事実に符合するものである。
  
  (二) 前掲甲第二号証(原告翻訳文)及び乙第一号証(被告翻訳書)によれば、原告翻訳文と被告翻訳書の各表現を対比すると、例えば、別紙一及び五のとおりであつて、両者の表現は、文体及び語調等において、同一の原書の翻訳文としては非常に異なるものであるといわざるをえず、また、右各別紙で引用した部分以外の部分も、その表現は右と同程度相違するものであると認められる。
  
  ところで、複数の翻訳文が存在する場合、基にした原書が同一である限り、互いに他を複製したものでなくとも、内容や用語自体の多くが同一の表現となることは、むしろ当然ともいえるのであり、右の点に同一の部分があるからといつて、それだけで直ちに両者のどちらかが他を複製したものと認めることはできないところ、右認定のとおり、原告翻訳文と被告翻訳書は、その文体及び語調等の表現が非常に異なるものであり、その表現の相違自体からも、両者は、全く別個に執筆されたものであると推認するに十分である。この認定判断も、右三1の認定判断と符合するものである。
  (三) 成立に争いがない(証拠)及被告B本人尋問の結果によれば、被告Bは、昭和59年1月9日に成田からパリに向けて出国し、同月28日に成田から入国していることが認められる。そして、前三1の認定のとおり、原告翻訳文が被告Aの所に届いたのは同年1月9日、被告翻訳書の原稿が訴外三晃印刷に入稿されたのは同年2月20日であるから、被告Bが原告翻訳文に接しえたのは、右の帰国後入稿までの間ということになる。仮に被告翻訳書の原稿が原告主張のように、原告翻訳文を複製して執筆されたものであるとすると、被告Bは、日本に帰国後、直ちに原告翻訳文を参照し、右(二)認定のような異なる文体にすべて書換え、これを入稿したということになるが、そのようなことは、時間的に極めて困難を伴うものといわざるをえず、もし、かかる複製行為をするのであれば、入稿を右のように急がせる必然性は全くないものといわなければならない。
  
  四 以上の点に関して、原告は、請求の原因4(一)ないし(五)のとおり主張するので、右主張について検討する。
  
  1 原告は、請求の原因4(一)において、原告が原告翻訳文を被告中央公論社あてに送付してからの被告らの行為について主張しているが、被告翻訳書の企画から発行に至る経緯及び同経緯に照らし被告翻訳書が原告翻訳文に基づいて再製されたものでないことは前三1の認定判断のとおりである。したがって、原告の右主張は、採用することができない。
  
  2 次に、原告は、被告翻訳書には多くの誤訳があり、被告Bのフランス語の能力は低いから、被告Bは、Cの作品を翻訳するにふさわしい者ではない旨主張する。そこで、審案するに、原告の主張する部分がすべて誤訳か否かについては、被告らの争うところであり、この点の判断は暫く措くとしても、この誤訳が多いとの主張は、当該部分に対応する原告の訳は正しく、被告Bの訳とは異なるということを前提とするものと解されるところであり、結局、多くの部分の訳が原告翻訳文と被告翻訳書とでは異なっていることを自認することに帰着するのであって、右事実は、むしろ、被告翻訳書が原告翻訳文の複製物ではないことを裏付けている。また、被告Bが翻訳者としてふさわしい者であるか否かは、翻訳書の出版社が決めることであって、少なくとも、被告翻訳書が原告翻訳文の複製物であるか否かの判断とは無関係であるといわざるをえない。したがって、原告の右主張も、採用の限りでない。
  
  3 原告は、被告翻訳書には、原告翻訳文に使用されている、原告の独創的な訳語を含めた多くの訳語及び訳文が使用されている旨主張する。そこで、この点について検討するに、成立に争いがない(証拠)及び弁論の全趣旨によれば、原告が原告の独創的な訳であると主張する部分は、別紙二ないし四のとおり、いずれも広く出版されている辞典に掲載されているか、あるいは原告以外のものでも訳出することの可能なものであると認められ、特に原告でなければ訳出することができないようなものであることを認めるに足りる証拠はない。そして、前三2(二)に判断したとおり、同一の原書の翻訳文の間では、内容や用語自体の多くが同一の表現となることは、むしろ当然ともいえることであって、それだけで直ちに複製が行われたものとすることはできない。また、前掲甲第二号証及び乙第一号証によれば、原告が独創的な訳語を使用していると指摘する部分は、例えば、別紙五のとおり、右訳語を含む文章全体を見るときには、かえって、異なった表現であることが認められ、このことは、右の判断を裏付けるものである。したがって、原告の右主張もまた、採用するに由ないものといわざるをえない。
  
  4 原告は、被告翻訳書において、原告翻訳文の誤訳をそのまま使用していると主張するが、その主張内容は、原告翻訳文と被告翻訳書とが同じ文法上の誤りを犯しているというにすぎず、その部分を含む文章全体の表現は、原告の指摘する両者の内容(別表一〇)から相違していることが明らかである。したがって、原告の右主張も、採用することができない。
  
  5 原告は、同一の著者の作品においては、同じ表現の原文は同趣旨に翻訳されるべきであるという。しかしながら、この点は、被告も、被告の主張5において主張するように、考え方の相違であるにすぎず、右主張事実は、被告らの複製行為を裏付けるものとは認められない。したがって、原告の右主張も、採用の限りでない。
  
  五 以上によれば被告翻訳書は、原告翻訳文を複製して執筆されたものと認めることはできないので、その余の点について判断するまでもなく、原告の本訴請求は、いずれも理由がないから、これを棄却することと(する。)
  
  [控訴審同旨]
  四 ところで、控訴人は控訴人翻訳原稿に用いられている個々の訳語の無断使用について著作権侵害を主張しているものではなく、右無断使用により翻訳原稿全体についての著作権侵害、すなわち複製権及び氏名表示権が侵害された旨主張するので、以上の認定判断を前提として、右主張について、以下判断する。
  
  1 まず、複製権の侵害の点についてみるに、著作物の複製とは、「既存の著作物に依拠し、その内容及び形体を覚知させるに足りるものを再製することをいう」ものと解される(最高裁昭和53年9月7日第一小法廷判決)から、右見地から、以下検討する。
  
  本件訳書が控訴人翻訳原稿に部分的に依拠しているものと推認し得ることは、既に前項に認定判断したとおりであるから、進んで、本件訳書が、控訴人翻訳原稿の全体についてその内容及び形体を覚知させるに足りるものか否かについて、以下、両者の翻訳文に即して検討することとする。
  
  本件原書の翻訳上の基本的態度が、控訴人においては、原文に絶対的に忠実であることを最も重視するのに対し、被控訴人Aのそれが、読者の理解を第一とする結果、原文からの拘束を極めて緩やかに解することは、既に前項に認定したとおりであり、かかる翻訳上の基本的態度の相違に基づき、控訴人翻訳原稿においては、原文に付加、削除を加えず、かつ、原文の表現形式を尊重する結果、原文が長文であれば、訳文も長文となる傾向を有するのに対し、本件訳書においては、本件原書をハードボイルド小説と捉え、読者の理解の得られ易さを第一とする結果、原文に対する付加、削除を必要に応じて行うとともに原文の長文も短文に分解して翻訳する傾向を有するなど、両者は、その基本的構造、語調、語感を大きく異にすることは、控訴人翻訳原稿と本件訳書を読み比べれば、一見して明らかであり、この点は、控訴人においても認めるところである。
  
  これを具体的にみてみると、例えば、控訴人が控訴人翻訳原稿における控訴人の訳語を使用したとする別表三の1及び2の「しみ一つない」及び「興じていた」についてみるに、右部分は、前掲乙第一号証の本件訳書においては、「カウンターでは、染みひとつない上着に身を包み、礼儀正しく非の打ちどころのないバーテン、ルイが、山羊髭の客とダイスに興じていた。甘い音楽の調べがラジオから流れている。だがそのラジオは目につく場所には置かれていなかった。」との訳文であり、三文に訳出されているのに対し、控訴人翻訳原稿の前掲第二号証における該当部分は、「バーの方では、しみ一つないぱりっとした上衣を一部のすきもなくぴしっときめたバーテンのルイが、どこかにあるのかラジオから流れ出るムード音楽を伴奏に、客の髭男とサイコロ勝負に興じていた。」との訳文であり、一文に訳出されていることが認められるところ、成立に争いのない甲第一号証によれば、右翻訳部分に対応する原文は一文により表現されていることが認められる。のみならず、右の二つの訳文を読み比べれば、同じ原文の訳文でありながら両者の語調、語感等の相違から文章全体から受ける印象は異なるものがあり、被控訴人Aの訳文が控訴人の訳文に依拠したものと認められないことは明らかであるし、丹念に対比しない限り、一読しただけでは、控訴人が盗用と主張している「しみひとつない」との同じ訳語が右各翻訳文において使用されていることすら気付かないまま読み過ごされてしまうものといっても過言ではない。また、本件原書第一章冒頭に近い文章を対比してみると、控訴人翻訳原稿においては、「私は大通りの教会側へ出て、国際色ゆたかな散歩者たちのかしましい人波をかきわけて行った。彼らは、安青銅のベルナール・パリシイ(一六世紀の陶芸家、うわ薬の合成に成功す。)が台座の上で倦まず弛まずさし出している歴史的な皿には目もくれず、小公園の鉄柵にそった広い歩道をねり歩いていた。」(甲第二号証五丁裏三行目から九行目)と二文で訳出されているのに対し、本件訳書のこれに対応する部分は、「私は、教会が影を落としている大通りに出た。幅広い歩道が小さな広場の鉄柵に沿って拡がっている。いろいろなところから集まってきた連中が、波打つように行ったり来たりしていた。賑やかだ。そんな人込みを掻き分け私は歩いていた。陶芸家ベルナール・パリシイのブロンズ像の台座の上から、歴史上意義あるものとされている勲章を、どうだい、とばかりにひけらかしている。まるで露天商人みたいだった。だが、目をくれる奴はひとりもいやしない。」(乙第一号証七頁本文七行目から一二行目)と八文で訳出されている。そして、二つの訳文を読み比べてみた場合、その文章全体から受ける印象の相違により、被控訴人Aの訳文が控訴人の訳文に依拠したものと認められないことが明らかであることは、前記訳文の対比と変わるところはない。
  
  以上のように、控訴人翻訳原稿と被控訴人Aの本件訳書とは、右両者の翻訳に対する基本的態度の根本的な相違を反映して、訳文の基本的構造、語調、語感を大きく異にしているものであり、かかる相違は、その基本的性格の故に、控訴人翻訳原稿に依拠したと推認される部分的訳語、訳文の存在を考慮しても、これによって何らの影響を受けるものではないことは、前記具体例の対比をみれば明らかというべきである。
  
  してみると、本件訳書には、個々の訳語、訳文において、控訴人翻訳原稿に依拠したと推認するのが相当な部分があるとしても、訳書全体を対比するならば、右の依拠した部分は、両訳文間の基本的構造、語調、語感における大きな相違に埋没してしまう結果、本件訳書が控訴人翻訳原稿を全体として、内容及び形体において覚知せしめるものとまではいえない、といわざるを得ない。
  
  2 そうすると、控訴人翻訳原稿全体の著作権(複製権)侵害のみを問題とする本訴請求は、結局、右侵害の立証がないことに帰するから、その余の点について判断するまでもなく、失当といわざるを得ない。
  
  また、氏名表示権の侵害の点についても、複製権の侵害がない以上、右氏名表示権の侵害もないことに帰するから、その余の点について判断するまでもなく、この点も失当といわざるを得ず、結局、控訴人翻訳原稿の著作権に基づく本訴請求はいずれも理由がないというべきである。」
  
  三 以上の次第であるから、本訴請求はいずれも理由がなく、原判決は相当であるから、本件控訴をいずれも棄却することと(する。)