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著作権判例セレクション
氏名表示権の侵害事例(いわゆる「”Dの症例(Y子の症例)”」事件)
▶昭和60年05月29日大阪地方裁判所[昭和58(ワ)3781]
三 被告らの不法行為責任について
1 被告A
前認定の事実によると、被告A著述の「心理療法入門」の「Dの症例」(94頁から116頁)のうち94頁から114頁の2行目までの部分は、原告の著作物である「Y子の症例」の全部引用というべきものであるに拘らず、その引用であることの明示を欠き、次いで同被告著述の「遊戯療法の世界」の中には、右「Y子の症例」の引用著作物である「心理療法入門」中の「Dの症例」の引用部分において、依然として右「Dの症例」が「Y子の症例」の引用であることが示されず、かえつてそれが被告Aの著作物であるものとして引用されたものであり、同被告の右両著述は、前者はそれ自体で、後者は前者と相俟つて、原告がその著作物「Y子の症例」につき有する氏名表示権(著作権法19条)を侵害したものということができる。
もつとも、前認定の事実によれば、被告Aはもともと故意に「Y子の症例」の担当者が自己ないしは妻Bであるとして発表しようなどという意思はなく、前者においては原稿に担当者が原告である旨の脚注を付記しておいたものが組版の段階で脱落していたことに気付き得ず、後者においては出版社員の勝手な裁量によつて「筆者の」の三文字が挿入されたものであるが、前者は著者としても右脚注の脱落の有無は事が他人の研究成果にかかわるものである以上細心の注意が必要であつたというべきであり、とくに横組みを意識した横書原稿として右脚注を欄外に書いておいたところ縦組みとなつていたのであるから、その脚注の組版挿入個所との関係で通常の注意を以てすればその脱落に気付き得たというべきであり(そのことが原告側に前記原稿の脚注が後に欄外に書き加えられたのではないかとの疑念を抱かしめる由縁でもある。しかし横書の書物であつてはその脚注が当該頁の下欄に記載される例は少くなく、被告Aがこれにならつて原稿もそういう体裁としたとの弁明をにわかに排斥できない)、また、後者は「筆者の」と付加されたことにより、そこに引用された「Dの症例」が同被告の著作物であることが強調された効果はあるものの、それによつて始めてその意味が明らかとなつたのではなく、原稿の段階で「Dの症例」の註記として、その出典が前記被告Aによる「心理療法入門」中の「Dの症例」であることを既に示しているものとみられる(そうみれば、右三文字の追加は被告Aの原稿が意図したところと逆方向に改変したというものでは決してなく、むしろ客観的にはその趣旨を明確にしたといえなくもない)ところ、前認定のとおり、その時点では販売中の「心理療法入門」初版本には「Dの症例」につき先の脚注脱落のままであることを知つていたのであるから、何ら注釈を加えず前認定のような形で右「心理療法入門」を引用すれば、先の「Dの症例」における原告の著作者氏名表示権の侵害の上塗りとなる結果を招来するであろうことに気付きえたと認められる。
よつて、被告Aは、右原告が「Y子の症例」につき有する氏名表示権(著作権法19条)を過失によつて侵害したものであり、原告に対する不法行為による損害賠償責任を免れないものというべきである。
もつとも、原告と被告Aとの間では、前述のとおりDの症例の脚注脱落問題は一段落したことが認められるが、それは原告から同被告に対して差し当つては脚注脱落を問題としないというにすぎず、前認定の事実によつても、原告が同被告に対して有する著作権侵害による損害賠償請求権等を放棄ないしは免除したものとまでは認められない。
なお、被告Aは原告に「Dの症例」の確定原稿を見せてその承諾を得たうえ福村出版に送付し、同出版は右原稿(但し脱落した脚注の部分はそうではない)に基づき「心理療法入門」を出版したのであるから、原告が「Y子の症例」の著作に対して有する同一性保持権(同法20条)を同被告が侵害したものとは認められず、又、原告の著作である「Y子の症例」の引用の方法(同法32条1項、48条1項1号)についても、原告の扱つた症例である旨の脚注が脱落していた点は違法であるが、それ以外は何ら違法な点はない。
2 被告B
被告Bは「心理療法入門」中の「Dの症例」の部分については全く関与しておらず、被告Aの過失によつて原告の症例であることを示す脚注が脱落し、原告の氏名表示権が侵害され、又原告の著作の引用の方法が違法となつたのであり、原告の著作権が侵害されたことについて被告Bに故意・過失があつたものとは認められないので、同被告には責任がない。同書の奥付に、その第2章が被告A・Bの両名により執筆されたことを示す記載があるが、証拠上本件不法行為を構成する記述部分につき被告Bの執筆分担部分でないことが認められる以上、右記載をもつて同被告に共同不法行為者としての責任を問うことはできない。
五 慰藉料、謝罪広告の掲載、弁護士費用の請求について
1 「心理療法入門」中の被告A執筆部分は32頁あり、うち「Y子の症例」の引用部分は21頁に及び、その細部にわたる文章の表現方法に至るまでほぼ同一内容であるから、明確に原告著「Y子の症例」の転記であることを示すべきであつた(この点では、むしろ被告Aの原稿のように「本例はEが担当し筆者がスーパーバイズした症例である。」としただけでは不十分であり、「本例はEが担当し筆者がスーパーバイズした症例であり、以下の記述はEが執筆した『Y子の症例』の症例報告に基づくものであるが、読者に解りやすくするために筆者が一部改変したり短縮して要約した部分もある。」旨脚注に明記するのが正確であろう。)のにこれを怠り、又、「遊戯療法の世界」については、それが発行された時点で販売中の「心理療法入門」第一刷は、未だ「Dの症例」が原告の担当した症例である旨の脚注が脱落したままであつたのに安易にこれをそのまま引用して誤解を招くなど、被告Aには原告の著作者人格権、ひいてはその研究成果を尊重しようとする配慮に欠けるところがあつたとみられてもやむを得ないものがある。
しかも、原告本人尋問の結果及び証人Hの証言によると、原告は、「心理療法入門」が発行された頃周囲の者から、「原告が発表した『Y子の症例』は被告Bが扱つた症例ではないか。」等と噂され、「遊戯療法の世界」が発行された頃周囲の一部の者から、「とうとう原告は被告Aに『Y子の症例』を金で売つた。」等と批難され、更に「Y子の症例」の著作権侵害問題が新聞で報道された後は一部の者から、「原告はヒステリー患者、更年期障害で、被告らはひどい目にあつている」等と言われて批判を受け、さまざまな迷惑を蒙つていることが認められる。
2 しかし乍ら、他方成立に争いのない(証拠等)によると、本件の発生にからんで、次のような事実のあることが認められる。すなわち、被告Aは昭和57年11月10日の教授会で助教授から教授への昇任が決定された。ところが、同月17日の毎日新聞に、「弟子の研究成果横取り」、「問われる学者の良心」、「引用明示せず出版」等の見出しの下、原告、被告Aの実名こそ伏されているものの、「心理療法入門」のDの症例の脚注脱落問題、「遊戯療法の世界」で筆者のDの症例として紹介されていることについて取り上げられ、学者として批判されても仕方のないケースである、出版社のミスという弁明は著作権に対する認識に欠け、学者として無責任な態度としか思えないとの論評が加えられた記事が掲載された。更に同月21日の読売新聞にも、「教え子の論文借用」、「教授昇進に待つた」、「名前明記の約束ホゴ」の見出しの下、同被告の実名、写真入りで「心理療法入門」「遊戯療法の世界」が取り上げられ、同被告が、実際に研究を担当した原告の名を著書に明記すると約束して、著書の二分の一にあたる部分を下書きさせながら、二回にわたつて約束を果さず、自分の研究のように発表した、大阪教育大学平野分校の養護教育教室は、同被告の教授昇進を事実上ストツプさせることを申し合わせた、こうしたケースはほとんどなく、とかく批判の多い研究者のモラルに大学自身がエリを正したものといえそうだとの記事が掲載された。又、昭和58年2月24日付の「OKDニュース・NO155号」(大阪教育大学広報委員会発行)の中で、「A問題について」と題する特集が掲載され、被告Aには原告の著作権あるいは実践活動を尊重しようとする配慮が基本的に欠けていたとして、同大学の複数の関係者によつて、同被告の学者としての姿勢にさまざまな角度から批判が加えられ、同被告自身も、自己の著作に関して慎重な配慮を欠いた結果関係者に多大の迷惑をかけたことをお佗びし、研究者として特に障害児教育に携わる者として基本的な配慮に欠けていたことを深く反省すると述べて、謝罪した。そして被告Aは「Y子の症例」の著作権侵害問題が原因で教授会で教授昇任決定が取消されてしまつた。
3 右1の事実によれば、被告Aの過失は必ずしも軽いものではなく、原告の蒙つた精神的打撃も少くはないと認められるけれども、右2の事実によれば、被告Aは大学の内外で学者としての態度まで遡及した批判を受けて、既に相当の社会的制裁を受けており、しかも被告Aは、「Y子の症例」の著作権侵害問題が表面化するや、直ちに、「心理療法入門」の第一刷の在庫約400冊を回収して買取り、「遊戯療法の世界」も回収して本症例は原告の症例であると明記して訂正し、著作権侵害行為の回復措置を講じ、又、「遊戯療法の世界」の中で「筆者のDの症例」となつていることを知るや、直ちに原告に対して謝罪の手紙を出したことなど諸般の事情を考慮すれば、原告の損害を補填するにはもはや謝罪広告の掲載はその必要性に乏しく、被告Aに対し慰藉料として金50万円の支払を命ずることを以て足りると思料する。
成立に争いのない(証拠)によれば、被告Aは、本訴係属前の示談交渉において原告に対し、迷惑料の支払(初め30万円、後にその増額を申し出る)を提案し、かつ、示談書の写しを郵送料等の費用同被告負担の下に原告が関係者に配布するか、又は原告作成の関係者リストに従い右示談書を同被告が配布することを申し出たが、原告が右申し出に応ぜず本訴を提起したことが認められるので、同被告の不法行為と原告の弁護士費用の出捐との間には相当因果関係が認められない。