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著作権判例セレクション

【音楽著作物の侵害性】楽曲の「編曲権」侵害が争点となった事例

▶平成12218日東京地方裁判所[平成10()17119]▶平成140906日東京高等裁判所[平成12()1516]

[原審]
本件は、「どこまでも行こう」の作曲者である原告A及び同曲の著作権者である原告K音楽出版が、「記念樹」の作曲者である被告に対し、「記念樹」は「どこまでも行こう」を複製したものであると主張して、原告Aにおいて氏名表示権及び同一性保持権侵害による損害賠償を求め(甲事件)、原告K音楽出版において複製権侵害による損害賠償を求め、他方、被告は、原告Aに対し、「記念樹」は「どこまでも行こう」とは別個の楽曲であると主張して、「記念樹」について著作者人格権を有することの確認を求めた事案である。

一 両曲の特徴・性質と両曲の同一性を判断するに当たって考慮すべき要素
前記(争いのない事実等)に弁論の全趣旨を総合すると、甲曲はいわゆるコマーシャルソングであり、乙曲は唱歌的なポピュラーソングであって、両曲とも、比較的短くかつ分かり易いメロディーによって構成されているものと認められるから、両曲の対比において、第一に考慮すべきものは、メロディーであると認められる。
しかしながら、証拠と弁論の全趣旨によると、音楽は、メロディーのみで構成されているものではなく、和声、拍子、リズム、テンポといった他の要素によっても構成されているものと認められ、前記(争いのない事実等)に弁論の全趣旨を総合すると、両曲とも、これらの他の要素を備えているものと認められる。
そうすると、両曲の同一性を判断するに当たっては、メロディーの同一性を第一に考慮すべきであるが、他の要素についても、必要に応じて考慮すべきであるということができる。
 二 甲曲・乙曲の各要素の対比
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三 両曲の同一性
右二のとおり、両曲は、対比する上で最も重要な要素であるメロディーにおいて、同一性が認められるものではなく、和声については、基本的な枠組みを同じくするとはいえるものの、具体的な個々の和声は異なっており、拍子についても異なっている。
そうすると、その余の点について判断するまでもなく、乙曲が甲曲と同一性があるとは認められないから、乙曲が甲曲を複製したものということはできない。

[控訴審]
本件は、別紙記載の歌曲(以下、歌詞付きの楽曲として「歌曲」の用語を用いる。)「どこまでも行こう」に係る楽曲(「甲曲」)の作曲者である控訴人Aびその著作権者である控訴人K音楽出版が、別紙記載の歌曲「記念樹」に係る楽曲(「乙曲」)の作曲者である被控訴人に対し、乙曲は甲曲を編曲したものであると主張して、控訴人Aおいて著作者人格権(同一性保持権及び氏名表示権)侵害による損害賠償を、控訴人K音楽出版において著作権(編曲権)侵害による損害賠償をそれぞれ求め、他方、被控訴人が、控訴人Aに対し、反訴請求として、乙曲についての著作者人格権を有することの確認を求めた事案である。
控訴人らは、原審においては、複製権侵害の主張をしたものであるが、控訴人らの本訴請求をいずれも棄却し被控訴人の反訴請求を認容した原判決に対して控訴するとともに、編曲権()侵害の主張を追加し、複製権侵害の主張を撤回したものであり、また、控訴人K音楽出版が当審において請求を拡張した。
() なお、控訴人らは準備書面等において「翻案権」との用語を用いているが、甲曲及び乙曲は楽曲に係る音楽の著作物であるところ、著作権法が、2条1項11号において、楽曲にのみ特有の「編曲」を「翻訳」、「変形」及び「翻案」と並んで二次的著作物の創作態様として規定した上、27条において、「編曲権」を「翻案権」等とともに著作者の排他的な権利の一つとして規定していることにかんがみ、控訴人らのいう「翻案権」は「編曲権」の趣旨にほかならないものと解されるので、以下、この表記による。

1 争点1(表現上の本質的な特徴の同一性)について
1-1 総論
(1) 「編曲」の意義
歌曲「どこまでも行こう」は、控訴人Aの作詞に係る歌詞と同人の作曲に係る楽曲(甲曲)との、いわゆる結合著作物と解されるところ、本件では、後者すなわち歌詞を除く楽曲としての音楽の著作物に係る著作権(編曲権)の侵害が問題となっている。著作権法は、楽曲の「編曲」(同法2条1項11号、27条)について、特に定義を設けていないが(文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約2条(3)、12条も同じ。)、同法上の位置付けを共通にする言語の著作物の「翻案」が、既存の著作物に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現することにより、これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいう(最高裁平成13年6月28日第一小法廷判決)のに準じて、「編曲」とは、既存の著作物である楽曲(以下「原曲」という。)に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現することにより、これに接する者が原曲の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物である楽曲を創作する行為をいうものと解するのが相当である。
なお、社団法人日本音楽著作権協会の編曲審査委員会の審査基準は、音譜を単に数字や符号などに書き変えたもの、原曲の調を単に他の調に移調したもの等を編曲著作物として取り扱わないと定めているが、これは主として編曲に至らない程度の改変と編曲との区別に着目した基準と解されるものであって、原曲と、その改変の程度が大きくなり、別個独立の楽曲の創作としてもはや編曲とはいえなくなるようなものとの区別に関して参考にすることはできない。
ところで、一般用語ないし音楽用語としての「編曲」(アレンジメント)については、例えば、代表的な国語辞書では、「ある楽曲を他の楽器用に編みかえたり、他の演奏形式に適するように改編したりすること」(株式会社岩波書店発行の「広辞苑第5版」)、「ある楽曲をその曲本来の編成から他の演奏形態に適するように書き改めること」(株式会社三省堂発行の「大辞林」)などとされ、平成11年2月28日株式会社音楽之友社発行の「新訂 標準音楽辞典」においては、「(1)楽曲の本来の形から、通常、原曲の実体の本質をできるだけそこねずに、他の演奏形態に適するように改編することをいう。・・・大規模な編成を小編成に改める場合・・・編曲者の創作の入る余地はない。また演奏上の目的で行われる改編もあり、その場合は、編曲者による創作的要素が加わることが多い。たとえば、旋律だけの原形に伴奏を付加したり、まったく異なった楽器編成に改めたり、小規模な編成の楽曲を大編成に書き改めたりする場合などが含まれる。異なった編成への編曲を〈トランスクリプション〉とよぶこともある。(2)ポピュラー音楽やジャズでは、旋律や和声の特定の解釈をいう。・・・普通このような場合では、作曲家の役割は旋律を指定し、簡単に伴奏の和声を示すことだった。そして編曲者に演奏形態やオーケストレーションに関して自由裁量を残し、リズムや和声の細目についてはまかせている」とされているが、上記(1)の例として挙げられている「大規模な編成を小編成に改める場合」などは、著作権法上はむしろ「複製」の範ちゅうと解されるものであり、結局、一般用語ないし音楽用語としての「編曲」が著作権法上の「編曲」と必ずしも一致するものとはいえない。また、当審証人I(以下「I証言」という。)によれば、音楽業界で一般に「編曲」という場合には、上記(2)の趣旨、すなわち、旋律と和声の構造の確定した楽曲について、その構造を変更することなく、バックのオーケストラのスコアを制作することを指すものと認められるが(Eの陳述書によれば、同人による乙曲の「編曲」もこのような態様を指すものと解される。)、著作権法上の「編曲」がこのような態様のものに限定されるものでないことは当然である。
そこで、一般用語ないし音楽用語としての「編曲」と著作権法上の「編曲」とでは、概念が必ずしも一致しないことを前提に、以下では、上記に示した著作権法上の解釈に従って、まず、乙曲が甲曲の表現上の本質的な特徴の同一性を維持しているかどうかについて検討する。
(2) 楽曲の表現上の本質的な特徴の同一性の判断基準
音楽の著作物としての楽曲の表現上の本質的な特徴の同一性の判断に当たって、控訴人らは、専ら旋律に着目すべきことを主張するのに対し、被控訴人は、旋律と和声は一体不離の関係にあると主張するとともに、旋律、和声、リズム、テンポ、形式等は音楽の著作物の本質的な特徴であるからその総合的な判断が行われるべきであると主張する。
この点に関して、Jの意見書(以下「J意見書」といい、他の意見書についても、初出のもの以外はこれに準じて表記する。)は、単旋律だけで表現される楽曲や打楽器のリズムだけで表現される曲もあるとの留保付きながら、大多数の曲は「旋律・和声・リズム・テンポ・形式が一体となって表現されたもの」であるとし、Kの意見書は、上記同様の留保付きながら、ほとんどの音楽は「リズム、メロディー、ハーモニー、形式等の一体化したもの」であるとし、いずれの意見書においても、楽曲の比較の上では、これらの諸要素が聴く者の情緒に一体的に作用することを踏まえて全体的に判断されるべき旨が述べられている。
確かに、一般に、楽曲の要素として、旋律(メロディー)、リズム及び和声(ハーモニー)をもって3要素といわれることがあり、また、場合によってはこれに形式等の要素を付け加えて、これら全体が楽曲に欠くことのできない重要な要素とされていることは、当審証人Lや控訴人A自身の著書(昭和56年7月10日成美堂出版発行)の「やさしい作曲のしかた/初心者のために」によっても認められるところである(当審証人Lは、東京音楽大学・同大学院作曲専攻主任教授としては、Mの通用名によっており、意見書等でもその通用名が用いられているので、以下ではその証言を「M証言」、その意見書等を「M意見書」と表記する。)。
そして、一般に、楽曲の本質的な要素が上記のような多様なものを含み、また、それら諸要素が聴く者の情緒に一体的に作用するのであるから、それぞれの楽曲ごとに表現上の本質的な特徴を基礎付ける要素は当然異なるはずである。そうすると、具体的な事案を離れて「表現上の本質的な特徴の同一性」を論ずることは相当でないというべきであり、原曲とされる楽曲において表現上の本質的な特徴がいかなる側面に見いだし得るかをまず検討した上、その表現上の本質的な特徴を基礎付ける主要な要素に重点を置きつつ、双方当事者の主張する要素に着目して判断するほかはない。
もっとも、単旋律だけで表現される楽曲もあることは、上記J意見書及びK意見書の指摘するところであって、旋律は、例えば浪曲のように単独でも音楽の著作物(楽曲)として成立し得るものである上、旋律自体を改変することなく、これに単に和声を付するだけで、旋律のみから成る原著作物の表現上の本質的な特徴の同一性が失われることは通常考え難いところである。これに対し、和声は、旋律を離れて、それ単独で「楽曲」として一般に認識されているとは解されず、旋律と比較して、著作物性を基礎付ける要素としての独自性が相対的に乏しいことは否定することができない。そして、このことは、打楽器のみによる音楽のような特殊な例を除いて、リズムや形式についても妥当するものと解される。そうすると、楽曲の本質的な特徴を基礎付ける要素は多様なものであって、その同一性の判断手法を一律に論ずることができないことは前示のとおりであるにせよ、少なくとも旋律を有する通常の楽曲に関する限り、著作権法上の「編曲」の成否の判断において、相対的に重視されるべき要素として主要な地位を占めるのは、旋律であると解するのが相当である。ちなみに、ドイツ著作権法(1965年)は、第1章「著作権」第4節「著作権の内容」第3款「使用権」中の23条「翻案物及び変形物」において、「著作物の翻案物その他変形物は、翻案又は変形された著作物の著作者の同意を得た場合に限り、公表し、又は使用することができる」と規定した上、24条「自由利用」において、「独立の著作物で、他人の著作物の自由利用によって作成されたものは、利用された著作物の著作者の同意を得ることなく、公表し、使用することができる」(1項)、「第1項は、音楽の著作物の利用で、ある旋律が明らかにその著作物から借用され、それが新たな著作物の基礎となっているときは、適用しない」(2項)と規定している(社団法人著作権情報センター発行「外国著作権法令集(16)-ドイツ編-」の訳による。)。このように、ドイツ著作権法24条2項が、旧ドイツ文学音楽著作権法(1901年)13条2項の規定を踏襲して、旋律が原著作物に依拠してこれを感得させることができる新たな音楽の著作物の利用については原著作物の著作者の同意を得ることを要する旨特に規定し、旋律を厳格に保護する法理を明文で定めていることは(フロム=ノーデマン「著作権法コンメンタール」〔第9版〕(1998)24条の注釈12~15参照)、立法例の相違を超えて顧慮すべきものを含む。
被控訴人において、旋律と和声は一体不離であると主張する趣旨が、およそ判断の一過程であっても、旋律だけを取り上げて検討すること自体の不当性をいうものであるとすれば、上記のような旋律の独自性を否定するに帰する議論であって、これを採用することはできない。
1-2 本件における考慮要素
(1) 甲曲の表現上の本質的な特徴について
ア 本件において、甲曲と乙曲の表現上の本質的な特徴の同一性を判断する前提としてまず検討されるべきは、甲曲の表現上の本質的な特徴がいかなる側面に見いだされるかである。すなわち、甲曲が備える表現形式であっても、表現上の創作性がない部分において乙曲と同一性を有するとしても、そのことから表現上の本質的な特徴の同一性を基礎付けることはできないからである(前掲最高裁平成13年6月28日第一小法廷判決参照)。
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エ 以上の趣旨は、M証言及びM意見書にも示されているとおりである。すなわち、M証言及び上記M意見書は、甲曲のフレーズA~Dが、順に起承転結を構成するとした上、乙曲との対比においては、2小節程度の旋律の類似性という部分的な問題ではなく、このような旋律全体の起承転結の組立ての同一性こそが最も重要な問題であると的確に指摘している。
したがって、甲曲と乙曲の表現上の本質的な特徴の同一性を検討する上で、まず考慮されるべき甲曲の楽曲としての表現上の本質的な特徴は、主として、その簡素で親しみやすい旋律にあるというべきであり、しかも、旋律を検討するに際しても、1フレーズ程度の音型を部分的、断片的に取り上げるのではなく、フレーズA~Dから成る起承転結の組立てというその全体的な構成にこそ主眼が置かれるべきである。
(2) 本件における旋律以外の要素の位置付け
一般に、旋律を有する通常の楽曲において、編曲の成否の判断要素の主要な地位を占めるのは旋律であると解されること、これを甲曲の楽曲としての本質的な特徴という観点から具体的に見ても、その表現上の本質的な特徴が、主として旋律の全体的な構成にあることは上記のとおりであるが、甲曲は和声等を含む総合的な要素から成り立つ楽曲であるから、最終的には、これらの要素を含めた総合的な判断が必要となるというべきである。
本件においては、控訴人らにおいて、甲曲と乙曲の表現上の本質的な特徴の同一性を基礎付ける具体的な事実として、旋律に着目した主張立証をし、被控訴人において、その同一性を否定すべき事情として、旋律自体に着目した同一性を争うととともに、和声、リズム、テンポ、形式等の要素に係る主張立証をしているので、以下、1-3で控訴人らの主張に係る旋律の要素を独立してまず取り上げて検討した上、被控訴人の主張する和声等の要素は、下記1-4、5でその減殺事由として考慮することとする。
1-3 旋律の対比
(1) 両曲の旋律の対応関係
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(2) 数量的分析
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(3) 起承転結の構成の類似性
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(4) 両曲の旋律の相違部分について
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(5) 旋律全体としての考察
以上に検討した両曲の旋律の類似点、相違点を踏まえて、ここでは、旋律という側面に限定しつつ、その全体的な考察を行う。
ア まず、上記(2)で述べたとおり、甲曲と乙曲は、異なる楽曲間の旋律の類似の程度として、当初から編曲に係るものとして公表された例を除いて、他に類例を見ないほど多くの一致する音を含む(約72%)にとどまらず、楽曲全体の旋律の構成において特に重要な役割を果たすと考えられる各フレーズの最初の3音以上と最後の音及び相対的に強調され重要な役割を果たす強拍部の音が、基本的に全フレーズにわたって一致しており、そのため、楽曲全体の起承転結の構成が酷似する結果となっている。特に、起承転結の「転」に当たる第3フレーズから「結」の前半に当たる第4フレーズの6音目にかけての部分を見ると、経過音レの有無とわずかな譜割りの相違という常とう的な編曲手法に係る差異があるほか、ほとんど同一というべき旋律が22音にわたって連続して存在し、ここだけを見ても、甲曲全体の3分の1以上(全16小節中の5.5小節)を占めている。他方で、両曲の旋律の相違部分として、導音シの有無(上記(4)ア)、上行形か下行形かとの差異(同イ)等が認められ、このうち、特に導音シの有無の点は、乙曲のみが有する新たな創作的な表現を含むものとして軽視することはできないものの、量的にも、質的にも、上記の共通する旋律の組立てによってもたらされる支配的な印象を上回るものではないというべきである。
イ I証言及びI意見書、J意見書、K意見書は、両曲の対比は、原曲(最初に公表されたバージョン)を虚心に聴き比べた印象が重要であると指摘するところ、甲曲が最初に公表されたのは、テレビコマーシャルソングとしてCが歌唱した検甲1のものと認められるが、これは、実演家としてのCの個性が強く表現されているものといわざるを得ない。また、乙曲が最初に公表されたのは、フジテレビの番組「あっぱれさんま大先生」のエンディング・テーマに用いるために子供たちが斉唱したものであって、検甲3の1の2曲目とほぼ同様のものと推認されるが、これは、子供たちによる斉唱という特定の歌唱による印象付けが行われている上、Eによる編曲とSによるストリングス編曲が施されており、歌詞の付された歌曲として両者を聴き比べた場合に、歌詞自体の持つ印象の相違が及ぼす影響も無視することはできない。
本件において、楽曲の表現上の本質的な特徴を直接感得する方法としては、両曲の旋律を楽器演奏したもの(なお、ピアノ伴奏により和声が付されているが、細部の経過和音はともかく、おおむね甲曲と乙曲のそれぞれの和声によっていることがうかがわれる。)として検甲12が、両曲を同一の歌詞及び歌唱法で唱歌したものとして検甲13、18、19がそれぞれ提出されているところ、これらを聴いたときに、甲曲の旋律と乙曲の旋律は、いわゆるデッドコピーというほどの強い類似性があるとはいえないものの、少なくとも、よく似ている旋律が相当部分を占めるという印象を抱くことは否定し難いところといわざるを得ない。特に、検甲13、18、19においては、同じ歌詞で唱歌するという方法自体において、印象の共通性を強める要素が働くことは否定し得ないが、そのことを考慮に入れたとしても、乙曲の旋律から甲曲の旋律の表現上の本質的な特徴を直接感得することは容易である。
また、控訴人らは、甲曲が極めて多様な編曲の創作性の余地を有していることを立証する趣旨で、証拠を提出しているので、この観点から更に検討するに、例えば、検甲16は、控訴人A自身が甲曲を編曲したものである「ジャズ風」、「ワルツ」、「ゆっくり」、「はずんで」の4曲を、乙曲と併せて録音したものであるが、それらの譜面上からも明らかなように、上記4種類の曲の旋律には、甲曲(原曲)と乙曲との違いを上回るほどの大胆な改変が加えられているにもかかわらず、その改変後の4曲から原曲である甲曲の表現上の本質的な特徴を直接感得することは容易であり、同様のことは、前掲の各証拠中、検甲16以外のものに係る曲についても妥当する。このことは、甲曲を原曲とする編曲の創作性の余地が、その旋律の改変にもかかわらず、なお相当程度残されることを示すものと解される。
ウ 以上の認定判断を総合すると、旋律に着目した全体的な検討としては、両曲は表現上の本質的な特徴の同一性を有するものと解するのが相当である。
1-4 和声について
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1-5 その他の要素について
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1-6 争点1のまとめ
以上のとおり、乙曲は、その一部に甲曲にはない新たな創作的な表現を含むものではあるが、旋律の相当部分は実質的に同一といい得るものである上、旋律全体の組立てに係る構成においても酷似しており、旋律の相違部分や和声その他の諸要素を総合的に検討しても、甲曲の表現上の本質的な特徴の同一性を維持しているものであって、乙曲に接する者が甲曲の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできるものというべきである。
2 争点2(依拠性)について
(1) (中略)
(2) 以上のとおり、被控訴人は、依拠性を全面的に争うので、以下、依拠の事実を基礎付けるに足りる間接事実が認められるかどうかという観点から検討する。
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ウ そして、何より、甲曲と乙曲の旋律の上記のような顕著な類似性、とりわけ、全128音中92音(約72%)で両曲は同じ高さの音が使われているという他に類例を見ない高い一致率、楽曲全体の3分の1以上に当たる22音にわたって、ほとんど同一の旋律が続く部分が存在すること、乙曲は反復二部形式を採用しているものの、その前半部分と後半部分に見られる基本的な旋律の構成は、甲曲の起承転結の構成と酷似していること、他方、甲曲程度の比較的短い楽曲であっても、その旋律の組立てにはそれ相応の多様な創作性の余地が残されていると解されることは前示のとおりであり、以上のような顕著な類似性が、偶然の一致によって生じたものと考えることは著しく不自然かつ不合理といわざるを得ない。そうすると、このような両者の旋律の類似性は、甲曲に後れる乙曲の依拠性を強く推認させるものといわざるを得ない。
(3) 次に、依拠性を否定すべき事情として被控訴人の主張する点について検討する。
ア 被控訴人は、乙曲はいわゆる詞先の曲であるところ、乙曲の歌詞から甲曲は連想されないことを理由に、依拠性は否定されるべきである旨主張する。確かに、乙曲がいわゆる詞先の曲であること自体は、上記(1)の被控訴人本人(当審)及び同掲記の各陳述書により認められるところであるが、依拠の具体的な態様が、乙曲の歌詞からの連想という限定された思考経路をたどらなければならない必然性はなく、むしろ、曲想のかけ離れた楽曲間でも編曲が生じ得ること(例えば、クラシック音楽の繊細で落ち着いた曲想の旋律に依拠しつつ、情熱的な曲想の現代ポピュラー曲に改変するなど)を考えれば、乙曲がいわゆる詞先の曲であることは、依拠性を否定すべき事情としてさほど評価することはできない。
イ また、被控訴人は、甲曲が慣用的な音型の踏襲であることを理由として、旋律の類似性は依拠性を推認させるものではない旨主張するが、両曲の旋律の顕著な類似性が、せいぜい1フレーズ程度の旋律部分に見られるような慣用的な音型の一致が重なったものと説明し得るようなものでないことは前示のとおりである。
ウ さらに、被控訴人は、自身は経験と実績を十分有する作曲家であって、乙曲のような簡素な16小節の楽曲を制作するのに造作はなく、曲想のかけ離れた甲曲をわざわざ参考にする必要性がない旨主張し、陳述書及び当審における本人尋問の結果中にも同旨の記載及び供述があるほか、I証言では、被控訴人が甲曲に依拠して乙曲を作曲するような何ら利のないことをする必然性や動機がないことを指摘している。また、被控訴人が、日本作編曲家協会会長、社団法人日本音楽著作権協会理事、日本レコード大賞実行委員長、東京音楽大学客員教授等を歴任し、経験と実績のある作編曲家として高く評価されていることは証拠によって認められるところである。しかしながら、原曲のいわゆるデッドコピーに類するような楽曲を自らの作品と称して公表したといった事案であれば格別、被控訴人が、甲曲に依拠しつつも、自らの創作的な表現を盛り込むことによって、甲曲の表現上の本質的な特徴の同一性を維持しない別個独立の楽曲である乙曲を作曲したと考えていたところ、結果的に、甲曲の表現上の本質的な特徴の同一性を損なうほどの創作的な表現が乙曲に盛り込まれなかったために、法的には甲曲に係る編曲権の侵害を生じたという事態は、被控訴人の上記経歴を考慮しても、なお起こり得ることであり、一般に経験則上否定されるべき事実ということはできない。したがって、被控訴人の上記主張及びこれに沿う証拠は、それ自体として、依拠性を否定すべき十分な根拠を有するものではない。
エ 被控訴人は、甲曲の作品届の提出時から乙曲の作曲時までの間には四半世紀の時が経過しているのに、甲曲が流布していたことを示す客観的な証拠は全く提出されていない旨主張する。しかしながら、甲曲が昭和41年に公表されてから長く歌い継がれて大衆歌謡ないし唱歌としての地位を確立し、昭和40年代から乙曲の作曲時である平成4年にかけての時代を我が国で生活した大多数の者によく知られた著名な楽曲であること、被控訴人が控訴人Aとほぼ同世代に属し、長年にわたり我が国で音楽活動をしてきた経験と実績を有する作編曲家であることは上記のとおりであり、四半世紀の時の経過という点だけをとらえて依拠性を否定することはできない。なお、最高裁昭和53年9月7日第一小法廷判決の事案は、米国内で公表され我が国でヒットしたこともない原曲の公表時から約30年後に我が国で作曲された楽曲の原曲に対する依拠性が否定されたものであり、本件とは明らかに事案を異にする。
(4) 以上の認定判断を総合するに、甲曲は、昭和40年代から乙曲の作曲された当時(平成4年)にかけての時代を我が国で生活した大多数の者によく知られた著名な楽曲であって、甲曲と乙曲の旋律の間には乙曲が甲曲に依拠したと考えるほか合理的な説明ができないほどの上記のような顕著な類似性があるほか、被控訴人が乙曲の作曲以前に甲曲に接したであろう可能性が極めて高いことを示す客観的事情があり、これを否定すべき事情として被控訴人の主張するところはいずれも理由がなく、他に的確な反証もないことを併せ考えると、乙曲は、甲曲に依拠して作曲されたものと推認するのが相当である。この認定に反する被控訴人の当審における本人尋問の結果及び陳述書の記載は、採用することができない。
3 本訴請求に係る侵害論のまとめ
乙曲は、既存の楽曲である甲曲に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現することにより創作されたものであり、これに接する者が甲曲の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできるものというべきである。そうすると、被控訴人が乙曲を作曲した行為は、甲曲を原曲とする著作権法上の編曲にほかならず、その編曲権を有する控訴人K音楽出版の許諾のないことが明らかな本件においては、被控訴人の上記行為は、同控訴人の編曲権を侵害するものである。
また、被控訴人が控訴人Aの意に反して甲曲を改変した乙曲を作曲した行為は、同控訴人の同一性保持権を侵害するものであり、さらに、同控訴人が甲曲の公衆への提供又は提示に際しその実名を著作者名として表示していることは前示のとおりであるところ、被控訴人は、乙曲を甲曲の二次的著作物でない自らの創作に係る作品として公表することにより、同控訴人の実名を原著作物の著作者名として表示することなく、これを公衆に提供又は提示させているものであるから(乙曲について同控訴人の実名を原著作物の著作者名として表示することなく公衆への提供又は提示がされていることは当事者間に争いがない。)、この被控訴人の行為は、同控訴人の氏名表示権を侵害するものである。
そして、上記著作権及び著作者人格権の侵害について、被控訴人に故意又は過失のあったことは、これまでの認定事実に照らして明らかというべきであるから、被控訴人は、控訴人らに対する損害賠償義務を免れない。
4 争点3(控訴人らの損害)について
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5 反訴請求について
被控訴人の反訴請求は、控訴人Aに対し、被控訴人が乙曲について著作者人格権を有することの確認を求めるものであるところ、乙曲が甲曲の編曲に係る二次的著作物であること及び当該編曲が違法といわざるを得ないことは前述のとおりであるが、現行著作権法が、編曲に係る二次的著作物について編曲者に著作者人格権が発生するための要件として、当該編曲の適法性を要求するものでないことは、著作権に関して前述したところと同様である。そうすると、被控訴人は、乙曲について著作者人格権を有することが認められる。
なお、控訴人らは、当審において、乙曲は甲曲を複製したものであるとの主張を撤回して、専ら編曲に係る二次的著作物であるとの主張に変更していることから、被控訴人の反訴請求に係る確認の利益に疑問の余地がないではないが、控訴人Aにおいて、被控訴人が乙曲について著作者人格権を有することを明示的に認める主張をしているものではなく、専ら反訴請求を棄却する判決を求めており、しかも、編曲に係る二次的著作物について編曲者が著作権法上の保護を受ける要件として、編曲の適法性が要求されるとの解釈を前提としていると解される主張もしていることを併せ考えると、被控訴人と同控訴人との間において、被控訴人が乙曲について著作者人格権を有することを確定させることが必要かつ適切であるから、確認の利益も肯定されるというべきである。
したがって、被控訴人の控訴人Aに対する反訴請求は理由がある。