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著作権判例セレクション
【舞踊無言劇著作物】フラダンスの(舞踊の)著作物性が争点となった事例
▶平成30年9月20日大阪地方裁判所[平成27(ワ)2570]
1 争点1(本件振付け6等の著作物性)について
(1) フラダンスの著作物性について
ア 著作権法10条1項3号は「舞踊の著作物」を著作物の例示として挙げており,これは,人の身体の動作の型を振付けとして表現するものである。そして,これについては,それを公衆に直接見せることを目的として上演する権利(上演権)が著作権の支分権として定められている(同法22条)
イ ハワイの民族舞踊のことをフラないしフラダンスというが,フラには古典フラと現代フラがあり,古典フラが,大昔からハワイ人の歴史の中でそれぞれの流派に大切に守られ受け継がれてきた詠唱(オリ)と踊り(フラ)から成るのに対し,現代フラは,19世紀以降に西洋文明の影響を受けてメロディーを取り入れて作り出され,いわゆるハワイアン音楽と共に発展したものである。本件で問題となっているのは現代フラであるが,現代フラでは,師匠であるクムフラ(クム)が自ら楽曲に振付けをして,自らの教室(ハーラウ)の生徒に教えている。(以上につき甲14[クムフラの陳述書])
そして,ハワイの民族舞踊であるフラダンスの特殊性は,楽曲の意味をハンドモーション等を用いて表現することにあり,フラダンスの入門書においても,フラは歌詞をボディランゲージで表現するとか,ハンドモーションで歌詞の意味を表現し,ステップでリズムをとりながら流れを作るというのがフラの基本であるとされている。すなわち,フラダンスの振付けは,ハンドモーションとステップから構成されるところ,このうちハンドモーションについては,特定の言葉に対応する動作(一つとは限らない)が決まっており,このことから,入門書では,フラでは手の動きには一つ一つ意味があるとか,ハンドモーションはいわば手話のようなもので,手を中心に上半身を使って,歌詞の意味を表現するとされている。他方,ステップについては,典型的なものが存在しており((証拠)の入門書では合計16種類が紹介されてい。),入門書では,覚えたら自由に組み合わせて自分のスタイルを作ることができるとされている。
ウ これらのフラダンスの特徴からすると,特定の楽曲の振付けにおいて,各歌詞に対応する箇所で,当該歌詞から想定されるハンドモーションがとられているにすぎない場合には,既定のハンドモーションを歌詞に合わせて当てはめたにすぎないから,その箇所の振付けを作者の個性の表れと認めることはできない。
また,フラダンスのハンドモーションが歌詞を表現するものであることからすると,ある歌詞部分の振付けについて,既定のハンドモーションどおりの動作がとられていない場合や,決まったハンドモーションがない場合であっても,同じ楽曲又は他の楽曲での同様の歌詞部分について他の振付けでとられている動作と同じものである場合には,同様の歌詞の表現として同様の振付けがされた例が他にあるのであるから,当該歌詞の表現として同様の動作をとることについて,作者の個性が表れていると認めることはできない。
さらに,ある歌詞部分の振付けが,既定のハンドモーションや他の類例と差異があるものであっても,それらとの差異が動作の細かな部分や目立たない部分での差異にすぎない場合には,観衆から見た踊りの印象への影響が小さい上,他の振付けとの境界も明確でないから,そのような差異をもって作者の個性の表れと認めることは相当でない。また,既定のハンドモーションや他の類例との差異が,例えば動作を行うのが片手か両手かとか,左右いずれの手で行うかなど,ありふれた変更にすぎない場合にも,それを作者の個性の表れと認めることはできない。
もっとも,一つの歌詞に対応するハンドモーションや類例の動作が複数存する場合には,その中から特定の動作を選択して振付けを作ることになり,歌詞部分ごとにそのような選択が累積した結果,踊り全体のハンドモーションの組合せが,他の類例に見られないものとなる場合もあり得る。そして,フラダンスの作者は,前後のつながりや身体動作のメリハリ,流麗さ等の舞踊的効果を考慮して,各動作の組合せを工夫すると考えられる。しかし,その場合であっても,それらのハンドモーションが既存の限られたものと同一であるか又は有意な差異がなく,その意味でそれらの限られた中から選択されたにすぎないと評価し得る場合には,その選択の組合せを作者の個性の表れと認めることはできないし,配列についても,歌詞の順によるのであるから,同様に作者の個性の表れと認めることはできない。
エ 他方,上記で述べたのと異なり,ある歌詞に対応する振付けの動作が,歌詞から想定される既定のハンドモーションでも,他の類例に見られるものでも,それらと有意な差異がないものでもない場合には,その動作は,当該歌詞部分の振付けの動作として,当該振付けに独自のものであるか又は既存の動作に有意なアレンジを加えたものいうことができるから,作者の個性が表れていると認めるのが相当である。
もっとも,そのような動作も,フラダンス一般の振付けの動作として,さらには舞踊一般の振付けの動作として見れば,ありふれたものである場合もあり得る。そして,被告は,そのような場合にはその動作はありふれたものであると主張する。
しかし,フラダンスのハンドモーションが歌詞を表現するものであることからすると,たとえ動作自体はありふれたものであったとしても,それを当該歌詞の箇所に振り付けることが他に見られないのであれば,当該歌詞の表現として作者の個性が表れていると認めるのが相当であり,このように解しても,特定の楽曲の特定の歌詞を離れて動作自体に作者の個性を認めるものではないから,個性の発現と認める範囲が不当に拡がることはないと考えられる。
オ ところで,フラダンスのハンドモーションが歌詞を表現するものであることからすると,歌詞に動作を振り付けるに当たっては,歌詞の意味を解釈することが前提になり,普通は言葉の通常の意味に従って解釈すると思われるが,作者によっては,歌詞に言葉の通常の意味を離れた独自の解釈を施した上で振付けの動作を作ることもあり得る。そして,原告は,その場合には解釈の独自性自体に作者の個性を認めるべきであると主張する趣旨のように思われる。しかし,著作権法は具体的な表現の創作性を保護するものであるから,解釈が独自であっても,その結果としての具体的な振付けの動作が上記ウで述べたようなものである場合には,やはりその振付けの動作を作者の個性の表れと認めることはできない。
他方,被告は,たとえ歌詞の解釈が独自であり,そのために振付けの動作が他と異なるものとなっているとしても,当該解釈の下では当該振付けとすることがありふれている場合には,当該振付けを著作権法の保護の対象とすることは結局楽曲の歌詞の解釈を保護の対象とすることにほかならず許されないと主張する。しかし,歌詞の解釈が独自であり,そのために振付けの動作が他と異なるものとなっている場合には,そのような振付けの動作に至る契機が他の作者には存しないのであるから,当該歌詞部分に当該動作を振り付けたことについて,作者の個性が表れていると認めるのが相当である。そして,このように解しても,個性の表れと認めるのは飽くまで具体的表現である振付けの動作であって,同様の解釈の下に他の動作を振り付けることは妨げられないのであるから,解釈自体を独占させることにはならない。
これに対し,歌詞の解釈が言葉の通常の意味からは外れるものの,同様の解釈の下に動作を振り付けている例が他に見られる場合には,そのような解釈の下に動作を振り付ける契機は他の作者にもあったのであるから,当該解釈の下では当該振付けとすることがありふれている場合には,当該歌詞部分に当該動作を振り付けたことについて,作者の個性が表れていると認めることはできない。
カ 以上のハンドモーションに対し,ステップについては,上記のとおり典型的なものが存在しており,入門書でも,覚えたら自由に組み合わせて自分のスタイルを作ることができるとされているとおり,これによって歌詞を表現するものでもないから,曲想や舞踊的効果を考慮して適宜選択して組み合わせるものと考えられ,その選択の幅もさして広いものではない。そうすると,ステップについては,基本的にありふれた選択と組合せにすぎないというべきであり,そこに作者の個性が表れていると認めることはできない。しかし,ステップが既存のものと顕著に異なる新規なものである場合には,ステップ自体の表現に作者の個性が表れていると認めるべきである(なお,ステップが何らかの点で既存のものと差異があるというだけで作者の個性を認めると,僅かに異なるだけで個性が認められるステップが乱立することになり,フラダンスの上演に支障を生じかねないから,ステップ自体に作者の個性を認めるためには,既存のものと顕著に異なることを要すると解するのが相当である。)。また,ハンドモーションにステップを組み合わせることにより,歌詞の表現を顕著に増幅したり,舞踊的効果を顕著に高めたりしていると認められる場合には,ハンドモーションとステップを一体のものとして,当該振付けの動作に作者の個性が表れていると認めるのが相当である。
キ 以上のようにして,特定の歌詞部分の振付けの動作に作者の個性が表れているとしても,それらの歌詞部分の長さは長くても数秒間程度のものにすぎず,そのような一瞬の動作のみで舞踊が成立するものではないから,被告が主張するとおり,特定の歌詞部分の振付けの動作に個別に舞踊の著作物性を認めることはできない。しかし,楽曲の振付けとしてのフラダンスは,そのような作者の個性が表れている部分やそうとは認められない部分が相俟った一連の流れとして成立するものであるから,そのようなひとまとまりとしての動作の流れを対象とする場合には,舞踊として成立するものであり,その中で,作者の個性が表れている部分が一定程度にわたる場合には,そのひとまとまりの流れの全体について舞踊の著作物性を認めるのが相当である。そして,本件では,原告は,楽曲に対する振付けの全体としての著作物性を主張しているから,以上のことを振付け全体を対象として検討すべきである。
そしてまた,このような見地からすれば,フラダンスに舞踊の著作物性が認められる場合に,その侵害が認められるためには,侵害対象とされたひとまとまりの上演内容に,作者の個性が認められる特定の歌詞対応部分の振付けの動作が含まれることが必要なことは当然であるが,それだけでは足りず,作者の個性が表れているとはいえない部分も含めて,当該ひとまとまりの上演内容について,当該フラダンスの一連の流れの動作たる舞踊としての特徴が感得されることを要すると解するのが相当である。
ク 以上の考え方の下に,本件振付け6等の著作物性について個別に検討する(なお,上記のとおりステップについては基本的に作者の個性が認められないから,特に検討を要する場合に限り言及することとする。)。
(2) 本件振付け6,11,13,15ないし17ごとの検討
ア 本件振付け6(楽曲:E Pili Mai)
(ア)‘Auhea wale
ana‘oe
a ‘Auheaは「どこに」,‘oeは,「あなた」の意味であり,原告は,これを「あなたは何処にいるの」と訳している。
b 本件振付け6では,大きく分けて,①右腕を,掌を下に向け額の前にかざし,わきを開いて左肘を曲げて胸の前に持ち上げて水平に置き,体の向きを左前から右前に動かし,このときステップは,右足と左足を交互に2歩ずつ右へ踏み出し移動する,②次に,左腕を伸ばし,右肘を少し曲げて,両手を胸の高さで掌を同じ向き(前面やや下向き)に揃え,体の向きを右前から左前に動かす,という2つのパートからなる動作をしている。
これらの動作について,原告は,体の向きとともに両腕を左へと動かす動作は「あなたはどこにいるのか?」という意味を表していると主張する。
まず,①の動作について見ると,‘Auhea(どこに)に対応するハンドモーションは片手を額の前にかざすとされており,乙12の振付けも,片手を額の前にかざしている。もっとも,①の動作は,額の前にかざさない方の手も曲げて胸の前に置いているのに対し,乙12や乙26では伸ばしている点が異なるが,片腕だけ曲げるところを両腕とも曲げることにするのはありふれた変更にすぎないから,これを有意な差異ということはできない。
次に,②の動作について見ると,‘oe(あなた)のハンドモーションは,目の前にいる相手を片手の指先又は掌で指すものである(乙3,4)から,②の動作は,これを体の向きを変えつつ行うものであるが,その点も含めて甲25の左下及び右下の振付けと同様のものである。
c したがって,ここの歌詞に対応する振付けは,原告の個性が表れているとは評価できない。
(イ) Ku’u lei o ka
pō
a Ku’u は「私の」,leiは,「(頭や首につけられる)花輪」,「〈比喩〉最愛の子供〔妻・夫・恋人・弟・妹〕」,pōは「夜」の意味であり(乙20 33及び54),原告は,これを「夜の私の愛しい人よ」と意訳している。
b 本件振付け6では,大きく分けて,①ややわきを開いて右肘を曲げ,右手を掌を下にして胸の前に水平に置き,左手は,掌を下に向けたままで,わきを開いて左肘を曲げ,前方から頭の上,頭の後ろを通って左胸の前へと動かし,このときステップは,右足左足を交互に2歩ずつ右へ踏み出し移動する,②次に,両手の掌を内向きにして両肘を曲げて,弾みを付けるように胸の前で両手を一度やや下に下ろし,両手の掌を上に返し両腕をゆっくりと同時に頭の上まで伸ばして掲げる,という2つのパートからなる動作をしている。
まず,①の動作について見ると,原告は,この曲の中ではleiは首飾りの「レイ」と「愛しい人」の2つの意味を持っており,首飾りのレイを自分の方に掛ける動作により,「私がかけたこのレイは,心から大切に思う恋人であるあなたの象徴です」という意味を表していると主張する。しかし,片腕を前方から頭の上,頭の後ろを通って左胸の前へと動かすのはleiのハンドモーションであり(乙4),他の部分も含めて,これらの動作は,甲25の右下の振付けと同様のものである。
次に,②の動作について見ると,原告は,両腕をかかげることで暗い空又は天国を表し,恋人が夜の闇の中にいることを表していると主張する。しかし,このような動作は,甲25の右下の振付けと同様のものである。これに対し,原告は,両手の掌を内向きにしている点を強調するが,その点も含めて甲25右下の類例と同様であるから,原告の主張は採用できない。
c したがって,ここの歌詞に対応する振付けは,原告の個性が表れているとは評価できない。
(ウ) Pō anu ho‘okahi
no au
a Pōは「夜」,anuは「寒い」,ho‘okahiは「ただ一人の」,auは「私」の意味であり(乙54,3),原告は,これを「夜は寒く 私は一人」と訳している。
b 本件振付け6では,大きく分けて,①両手の掌を下に返して右肘を少し曲げ,そのまま両腕を下ろしながら胸の高さまで持って行き,胸の前で体に沿うように両腕を交差させて両手の掌を内側に向け,一連の動作は右に270度ターンするステップの中で行われる,②次に,ターンにより左斜め後ろを向いたまま,両腕を伸ばしきるまで下ろしながら左斜め後ろへ左足右足を交互に2歩ずつ前進する,という2つのパートからなる動作をしている。
まず,①の動作についてみると,原告は,右回りに回転しながら両腕を下ろし胸の前で交差させることで,暗い夜が続き,暗く寒くなっていることを表していると主張する。この点,甲25の他の振付け及び乙12の他の振付けはいずれも,手の動きについては本件振付け6と同様の動きをしているものの,その際にターンするものはない。ターンは通常のステップの一種ではある(乙5のスピンターン)が,「夜」や「寒い」といった静的な歌詞からターンすることはが通常想定されない上,両腕を降ろしながらターンすることによって体全体の躍動感を高めていることから,なお有意な差異があるというべきである。これに対し,被告は,手の動作が既存のハンドモーションであり,足の動作が既存のステップであり,これらを組み合わせた動作はありふれたものであると主張するが,上記のとおり採用できない。
次に,②の動作について見ると,原告は,聴衆と反対(後ろ)に向かって歩いていくことで彼が孤独であることを表し,両腕を下ろすことで抱きしめる者がおらず一人で寒い夜を過ごしていることを表していると主張する。そして,この動作は,ここでの歌詞から想定されるものでない上,これと同様の動作を行っている類例は認められないから,本件振付け6独自のものであると認められる。これに対し,被告は,このような動作があらゆる舞踊においてありふれた動作であることを指摘するが,こうした被告の主張が採用できないことは,上記(1)エのとおりである。
c したがって,ここの歌詞に対応する振付けは,原告の個性が表現されていると評価できる。
(エ) Sweetheart mine E pili mai
a
Sweetheart mineは「私の愛しい人」の英語,piliは「一緒に」,「親しい関係」,maiは「こちらへいらっしゃい」の意味であり(乙33,54),原告は,これを「私の愛する人 一緒に来て」と訳している。b 本件振付け6では,大きく分けて,①両肘を内側に曲げ,掌を開いたまま胸の前で両手を一度くるりと回した後,少しわきを開いた状態で左肘を曲げたまま掌を上にして左手を胸の前に置き,右手は掌を上にして左胸の前から右斜め前の方向まで伸ばしていき,一連の動作は135度の右ターンの中で行われる,②次に伸ばした右手をやや戻し,左手を体の外側へ少し伸ばす。両手の人差し指を立て,両腕を体の外側へ伸ばし,両腕を伸ばしたまま,同時に体の前方へ持ってきて,胸の前で両手をくっつける,という2つのパートからなる動作をしている。
まず,①の動作について,原告は,後ろを向いた状態から聴衆の方向(前)に歩いて戻り,掌を上に向けて胸の前から右手を伸ばしていくことは,彼の気持ちを恋人にあげるということを意味し,彼の恋人への愛が終わることなく永遠に続いていくことを表していると主張するところ,このような動作は,乙12の振付けと同様のものである。
次に②の動作について,原告は,両腕を左右に伸ばしてから徐々に体の前に持って行き,体の前で両手をくっつけることで,彼らの愛が,彼らを一つにつなぎとめることができるほど強いものであることを示していると主張するところ,このような動作は,両手の人差し指を立て,体の前方へ持ってきて,胸の前で両手をくっつけるというe piliに対応するハンドモーションであり(乙26),異なる楽曲ではあるが同じe
piliの歌詞について行われている例もある(乙21ないし23)。これに対し,原告は,類例がないことをもって本件振付け6に独自性があると主張するが,上記に照らして採用できない。
c したがって,ここの歌詞に対応する振付けは,原告の個性が表れているとは評価できない。
(オ) Inā‘o‘oe a‘o au
a
ināは「もし…ならば」,‘oeは「あなた」,auは「私」の意味であり(乙54,3),原告は,これを「もしあなたが一緒なら」と訳している。
b 本件振付け6では,大きく分けて,①左手を下に降ろして体に沿わせ,右手を,掌を上向きに返しながら,右斜め前へ向かって少しひじを曲げた状態から前に伸ばす,②次に,左斜め前に向かって掌を下にして左腕を伸ばし,右腕は,掌を下にして,わきを開いて軽く曲げた状態で左斜め方向を指す,③次に,伸ばした左腕を曲げて胸の前に戻し,体に沿うように胸の前で左手と右手の掌を内向きにして重ね合わせる,という3つのパートからなる動作をしている。
まず,①及び②の動作をみると,原告は,彼があなたと一緒にいられることを強く待ち望んでいる様子を表していると主張するところ,このような動作は,手の平全部で目の前にいる相手を指すという‘oe(あなた)に対応するハンドモーション(乙4)を左右それぞれ1回ずつ行うものである。そして,甲25の左下では同様のハンドモーションを右手2回と左手1回交互に行い,同右下では同様のハンドモーションを右手1回のみ行っている例があるから,同様のハンドモーションを左右それぞれ1回ずつ行うことに有意な差異があるとはいえない。
次に,③の動作をみると,原告は,彼と恋人が一緒にいる状況を表現していると主張するところ,このような動作は,胸の前で手の平を自分の方に向けるというau(私)に対応するハンドモーションであり(乙3),甲25の右下及び左下の例でもとられている振付けである。
c したがって,ここの歌詞に対応する振付けは,原告の個性が表れているとは評価できない。
(カ)‘Ike i ke ahi
o Makana
a
ikeは「見る」,ahiは「炎」,Makanaは「マカナ」(地名)の意味であり(乙54,弁論の全趣旨),原告は,これを「私たちはマカナの炎を知るでしょう」と訳している。
b 本件振付け6では,大きく分けて,①右手は掌を下にして右目の横に添えて顔とともに左斜め上に向け,左手は左斜め上へ掌を下にしてまっすぐ伸ばす,②その後,伸ばした左手の肘付近に右手を添え,左手の手首を下に曲げて左腕を伸ばしたまま左斜め上から左斜め下までやや勢いよく降ろし,左腕を降ろすと同時に腰を落としてやや姿勢を低くとる,③次に,姿勢を低くしたまま両手を少し曲げた状態で胸の前で揃え,両手の掌で一度波打たせ,腰を上げて伸び上がりながら,左腕を伸ばした状態で体の横のやや斜め下,右腕も伸ばした状態で体の横のやや斜め上へ持っていき,再び両手の掌を一度波打たせる,という3つのパートからなる動作をしている。
まず①の動作についてみると,原告は,何かが起きることを予期すること,又はもうすぐ起きることを待っていることを表すもので,彼がこれから起きることを心から待ち望んでいることを表現していると主張するところ,この動作は,両手を目にかざし,片方の手の平と顔を外側に向けて,もう片方の手を伸ばすというike(見る)に対応するハンドモーションであり(乙4),甲25の左下でも同様の動作を行い,同右下では同様の動作を左右交互に行っている。
また,②及び③の動作について見ると,原告は,落ちてくるたいまつを掴み採ることが,一緒にいたいという燃え上がる愛の願望の象徴であることを表していると主張するところ,②の動作については,甲25の右下の例でも両手を上に上げてかがみながら低く降ろすから,上下方向の動作としては類似の例があるといえ(原告は,落ちてくるたいまつをつかみ取るという解釈に独自性があると主張するが,具体的表現として同様のものがある以上,解釈の独自性のみをもって振付けの独自性を認めることはできない。),③の動作については,片手を前に伸ばし,もう片方の手を上に伸ばす「場所」のハンドモーション(乙5)の要素を備えている。
しかし,①から③までの動作を一連のものとして観察すると,本件振付け6は,①の動作で体を大きく上に伸ばし,②の動作で大きく屈み,③の動作で再び大きく伸ばすという動作を組み合わせることにより,他の例には見られない体全体の躍動感のある振付けとなっており,個々の動作自体も,①の動作は片方の手を体を伸ばしながら真上近くまで高く上方に伸ばす点は類例になく,②の動作は両手を降ろす20 際の組み方において甲25の右下の例と同じではなく,③の動作も体を上に伸ばしている点で「場所」のハンドモーションそのままではなく,一連の振付けとして同様の組合せの類例は見当たらない。
c これらに鑑みると,ここの歌詞に対応する振付けは,原告の個性が表現されていると認めるのが相当である。
(キ) He makana ia na ke aloha
a
makanaは「贈り物」,alohaは「愛」の意味であり(乙33,54)原告は,これを「それは愛の贈り物となるでしょう」と意訳している。
b 本件振付け6では,大きく分けて,①掌を正面に開いたまま右腕を右斜め上にまっすぐ伸ばし,同じく掌を正面に開いたまま左腕をやや曲げ気味で右腕に添う様に置き,右腕を曲げると同時に左腕を伸ばすことで両手の高さを入れ替える,②次に,腰を落としてややかがみ気味の姿勢になりつつ,両腕を同時にゆっくり曲げ,掌を内側に向けて両手首を胸の前で交差させる,という2つのパートからなる動作をしている。
まず,①の動作についてみると,原告は,先のマカナの山(Makana)を表す先の動作から贈り物(makana)を表す動作へと動いていくものであると主張するところ,ここの動作は,両手を高さを違えてかかげる「山」のハンドモーション(乙4)を左右交互に行っているものに類似している。しかし,ここでのmakana(贈り物)が直前のMakana(地名)との同音異義語であるとして,ここで「山」のハンドモーションを当てて①の動作と同様の動作を行っている例は見当たらず,甲25の右下及び左下の振付け,乙12の振付けでは,いずれも両手を胸の前に置いてから両手を前方に広げるという動作をしており,makana(贈り物)の歌詞からすればこれらの例が素直であり,ここで「山」のハンドモーションを当てることが歌詞の内容から通常想定されるわけでもない。これに対し,被告は,本件振付け6の動作があらゆる舞踊においてありふれた動作であることを指摘するが,こうした被告の主張が採用できないことは,上記(1)エのとおりである。
次に,②の動作についてみると,原告は,贈り物という意味のマカナから愛を表す手を胸の前で交差させる動作へと動いていくもので,彼が恋人への愛の贈り物を贈ろうとしていることを表していると主張するところ,このような動作は,両手を広げたり前に突き出した状態から,右手を上,左手を下にして,胸の前でクロスするというaloha(愛)のハンドモーションであり(乙4),甲25の左下の振付けと同様である。
c したがって,ここの歌詞に対応する振付けのうち,①の動作は,本件振付け6独自のものであって,原告の個性が表現されていると評価できるが,②の動作は,原告の個性が表れているとは評価できない。
(ク) No nā kau a kau‘o‘oe a‘o au
a No
nā kau a kauは「いつまでもずっと」,‘oeは「あなた」,auは「私」の意味であり(乙54,弁論の全趣旨),原告は,これを「いつまでもずっと あなたと私」と訳している。
b 本件振付け6では,大きく分けて,①掌を開いたまま上に向け右腕を右斜め上に,掌を開いて上に向けた状態で左腕を体の左側に,それぞれゆっくり伸ばしながら,右に360度ターンする,②次に,左腕を左斜め前へ掌を下にしてまっすぐ伸ばし,右腕は,わきを開き右肘をやや曲げ気味で掌を下に向け胸の横に添え,伸ばした左腕を曲げて掌を内側に向けて胸の前まで戻し,左手を上にし,重ならないように両手の掌を体に沿うように胸に前に置く,という2つのパートからなる動作をしている。
まず,①の動作についてみると,原告は,足をスライドさせるステップを8拍の間行いつつ,腕を上側と外側に伸ばしていくことで,時間が流れていく様を表していると主張する。この点について,両腕を上側と外側に伸ばしていくという手の動きについては,甲25の左下及び右下の振付けも同様の動きをしているものの,その際にターンするステップを行っていない点で①の動作と異なり,他にこの箇所でターンするステップを行う類例は見当たらない。ターンは通常のステップの一種ではあるが,歌詞の語義や曲想からターンすることが通常想定されるわけでもなく,大きく両腕を広げながらターンすることによって類例にない体全体の躍動感を高めていることから,なお有意な相違というべきである。これに対し,被告は,手の動作は類例があり,足の動作は既存のステップであり,これらを組み合わせた動作はありふれたものであると主張するが,上記に照らして採用できない。
次に,②の動作についてみると,原告は,いつ何時でもあなたと私が永遠に一緒にいることを表していると主張するところ,片方の手を胸に添え,他方の手を前方に伸ばすのは‘oe(あなた)のハンドモーションであり(乙3,5),胸の前で両手の掌を自分の方に向けるのはau(私)のハンドモーションであり,甲25の右下の振付けでも,‘oeにおいて片手と両手の違いがあるとはいえ,手を伸ばし,その後手を曲げて胸の前に戻している例がある。
c したがって,ここの歌詞に対応する振付けのうち①の動作は原告の個性がなお表れていると評価できるが,②の動作は原告の個性が表れているとは評価できない。
(ケ) Sweetheart mine E pili mai
a 歌詞の意味は,上記(エ)と同様である。
b 本件振付け6では,大きく分けて,①両肘を内側に曲げ,掌を開いたまま胸の前で両手を一度くるりと回した後,左肘を曲げたままわきを開け,掌を上にして胸の前に置き,右手は掌を上にして左胸の前から右斜め前の方向に伸ばしていく,②次に,上記(エ)の②の動作をするという2つのパートからなる動作をしている。
まず,①の動作についてみると,原告は,愛する人を意味する心(ハート)の動作から作られていると主張するところ,甲25の左下及び右下は,いずれも両手を胸の前でクロスする動作(aloha〔愛〕のハンドモーションに似た動作)をしており異なるが,乙12では原告と同様の振付けがとられている。
また,②の動作は,上記(エ)の②の動作と同様,e pili(一緒に)のハンドモーションによるもので,類例もある。
c したがって,ここの歌詞に対応する振付けは,原告の個性が表れているとは評価できない。
(コ) 間奏
a 本件振付け6では,大きく分けて,①体の向きを90度右へ向けながら,わきを開けて左肘を曲げ,掌を下にして胸の前へ水平に置く。体の向きを90度右へ向けたところで,右手でスカートの右膝の辺りの裾を持ち,少し持ち上げる。その体勢のまま左に90度回転して再び正面を向く,②次に,左腕を左斜め前へ伸ばし,わきを開けて右肘を軽く曲げ,胸の前に置く。両手とも掌を下向きにし,両手の掌を一度ゆっくりと波打たせる,③最後に,掌を上向きにして,下からすくい上げるように右腕を右斜め前に伸ばし,その後左腕を同じように左斜め前に伸ばす,という3つのパートからなる動作をしている。
この点,②の動作は,間奏に対応するハンドモーションであり(乙5の30ないし31ページ),③の動作は,甲25の右下の振付けにおいて片手ずつではあるが同様の動作がされており,その相違が有意なものとはいえない。一方,①の動作については,甲25の他の振付け及び乙12の振付けに例がなく,他の曲に関する序奏,間奏,終奏の例を見ても,間奏の振付けとしてありふれたものであるとは認められない。
b したがって,間奏に対応する振付けは,①の動作については原告の個性が表現されていると評価できる。これに対し,被告は,本件振付け6は既存のハンドモーションであると主張する。しかし,上記aのとおり,本件振付け6には既存のハンドモーションどおりの部分もあるが,それ以外の部分も存在しており,被告の主張は採用できない。
(サ)‘Auhea wale
ana‘oe,Ku’u lei o ka pō,Pō anu ho‘okahi no au,Sweetheart mine, E pili mai,Inā‘o‘oe a‘o au,‘Ike i ke ahi o Makana,He makana ia na ke aloha,No nā kau a kau,‘o‘oe a‘o au,Sweetheart mine,E pili mai(2番の歌詞)
上記(ア)ないし(ケ)と同様である。
(シ) Sweetheart mine E pili mai(2回繰り返し)
a 1回目のSweetheart mineについて,本件振付け6では,直前の同じ歌詞の箇所とは異なり,両肘を曲げ,両手の掌を内向きにして胸の前で手首を交差させながら,右に360度ターンするという動作をしている。
この動作は,両手を広げたり,前に突き出した状態から,右手を上,左手を下にして,胸の前でクロスするというaloha(愛)のハンドモーション(乙4)をターンしながら行っているものであり,Sweetheart
mineという歌詞から一般に想定し得る動作であり,甲25の左下及び右下の振付けはいずれも,ターンを除き同様の動作をしている。ここでターンを加えるのは一定の工夫とはいえるが,終奏前に最後の歌詞が繰り返される場合に,ターンを加えて変化をつけるのは本件振付け17(後記カ)に対応する楽曲(Maunaleo)の終奏直前(後記カ(ナ)のaloha ē)でも甲46の右上,乙35の7,8の振付けに見られることであるから,ターンの有無は有意な相違とはいえない。
b また,2回目のSweetheart mineについて,本件振付け6では,左腕をまっすぐ伸ばして下におろし,右肘を曲げ,掌を内側にして人差し指・中指の先の辺りを一度口に当て,その後,掌を上にして右斜め前へゆっくりと右腕を伸ばし,このときステップは左足右足を交互に2歩ずつ左へ踏み出すという動作をしているところ,これは両手又は片手を口元に置いた後に手を前に伸ばすというaloha(愛)に対応する別のハンドモーションであり(乙3),Sweetheart
mineという歌詞から一般に想定し得る動作である。
c また,ここで2回繰り返されるE pili maiについては,上記(エ)と同様,原告の個性が表れているとは評価できない。
d 以上からすると,ここでの繰り返し部分は,基本的に類例があるか歌詞から想定し得る動作であるということができる。
(ス) 終奏
上記(コ)と同様であり,原告の個性が表現されていると評価できる。
(セ) 小括
以上のとおり,本件振付け6には,完全に独自な振付けが見られる(上記(ウ)②,(キ)①〔及び(サ)〕)だけでなく,他の振付けとは有意に異なるアレンジが全体に散りばめられている(上記(ウ)①,(カ),(ク)①,(コ)①〔及び(サ)〕)から,全体として見た場合に原告の個性が表現されており,全体としての著作物性を認めるのが相当である。
イ 本件振付け11(楽曲:Lei Ho’oheno)
(以下略)