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著作権判例セレクション

【著作者の権利】著名な作家の死後にその「手紙」が公表された事例

平成111018日東京地方裁判所[平成10()8761]▶平成120523日東京高等裁判所[平成11()5631]
()  原告らは、亡F(筆名G、以下「G」という。)の相続人であるが、Gが書いた未公表の手紙を掲載して、書籍を発行した被告らの行為が、①原告らが相続したGの右手紙に係る複製権を侵害する行為であり、また、②Gが生存していたならばその公表権の侵害となるべき行為であると主張して、当該書籍の出版等の差止め、書籍等の廃棄、損害賠償の支払及び謝罪広告を請求した事案である。

一 争点1(本件各手紙の著作物性)について
1 本件書籍は、被告EがGとの交際を中心に執筆した小説であり、Gと自己との関係を克明に叙述することによって、Gの一面を描こうとする創作意図の下に、執筆、発表した自伝的な告白小説である。本件書籍は、282頁からなり、「序」、「第一章 家族の歯車」、「第二章 真夏の破局」、「第三章 『奔馬』への旅」、「第四章 折れた帆柱」、「跋」により構成されている。
本件手紙①ないし⑩は、本件書籍「第三章 『奔馬』への旅」中に、本件手紙⑪ないし⑮は「第四章 折れた帆柱」中に、それぞれ掲載されている。
本件各手紙の概要は、以下のとおりである。
本件手紙①には、被告Eから送られた同人執筆の小説に対する返事等が、本件手紙②には、被告Eからの手紙に対する返事等が、本件手紙③には、Gの文学的主題や被告Eに対する小説執筆上の注意等が、本件手紙④には、Gの近況、40歳を迎える心境等が、本件手紙⑤には、被告Eが執筆した小説に対する感想、意見等が、本件手紙⑥には、Gのニューヨーク滞在中の感想、近況等が、本件手紙⑦には、自作自演の映画「憂国」に関する所感等が、本件手紙⑧には、被告Eの住む熊本を訪問すること等が、本件手紙⑨には、熊本行きの日程等が、本件手紙⑩には、熊本滞在中のホテルの手配に関する被告Eに対する依頼等が、本件手紙⑪には、熊本訪問の感想等が、本件手紙⑫には、被告Eへの依頼等が、本件手紙⑬には、被告Eからの手紙に対する返事、近況等が、本件手紙⑭には、Gの海外旅行中の近況等が、本件手紙⑮には、Gの近況、被告Eに対する依頼等が、簡明に記載されている。
なお、本件手紙⑤の全文を掲記すると以下のとおりである。
「前略、御作『はらから』やつと拝読しました。実は家の増築などで身辺ゴタし、仕事もゴタ、なかゆつくり落着いて拝読できず、どうせなら、気持の余裕のあるときに熟読したはうがと思つてゐたので遅くなりました。テーマのよく消化された短篇で、よく納得できるやうに書かれてゐます。性格描写としての兄弟の書き分けもたしかな筆づかひで、特に冒頭の弟のせせつこましい性格のエピソードの積み重ねなど面白い。
しかしこの作品で不満なのは、それ以上のものがないことです。おしまひに急に姉が出てくるのはいいが、肉親の宿命と愛憎が性的嗜好に端的に出てくるといふのはいいが、かういふ題材は川端さん式にうんと飛躍して、透明化して扱ふか、それとも、逆に、うんと心理的生理的に掘り下げて執拗に追究するか、どちらかです。
洋子が隆次タイプと性的にピタリと合ふといふのは説明だけで、『いかに合ふか』といふのが、文学的表現の一等むつかしいところで、それをわからせて、実感させるのが、文学だと思ひます。
それから情景としては飛行場の近くといふところ面白いのですが、肝腎の飛行場が活用されてゐない気がします、これはもつと趣深く使へる筈です。文章については、根本的に短篇の文章といふ問題を考へ直してほしいと思ひます。これが短い簡単な話なのにゴタした印象を与へるのは、文章のためと、自然主義的描写法のためと、もう一つは、月並な言ひ廻しのためです。13頁上段中頃の月の描写の月並さ、14頁下段の男神云々の表現、15頁上段の『欲情の闇』『赤い歓喜の炎』『恋の女神』『青春の花』などの安つぽい表現、15頁下段の『舞台装置のやうな』という比喩、16頁上段の( )の中の月並な感想など、・・・みなこの作品の味をにぶくしてゐます。御再考を促したいと思ひます。もつともつと余計なものを捨てること、まづ切り捨てることから学ぶこと、スッキリさせること、それから、題材に対して飛躍したスカッとした視点を持つこと・・・さういふことが短篇を書く上でもつとも大切だと思ひます。
悪口を並べてしまひましたが、意のあるところを汲みとつて下さい。次の作品をたのしみにしてゐます。匆々」
2 著作権法上保護の対象となる著作物とは、思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものであることを要し、これをもって足りる。
本件各手紙は、いずれも、被告Eとの往復書簡であり、特定の者に宛てられ、特定の者を読み手として書かれたものであって、不特定多数の読者を想定した文芸作品とは性格を異にする。しかし、本件各手紙には、単に時候の挨拶、返事、謝礼、依頼、指示などの事務的な内容のみが記載されているのではなく、Gの自己の作品に対する感慨、抱負、被告Eの作品に対する感想、意見、折々の心情、人生観、世界観等が、文芸作品とは異なり、飾らない言葉を用いて述べられている。本件各手紙は、いずれも、Gの思想又は感情を、個性的に表現したものであることは明らかである。以上のとおり、本件各手紙には著作物性がある。
よって、Gは、本件各手紙の著作者として、本件各手紙に係る公表権及び複製権を有していた。
二 争点2(不法行為の成否、損害額)について
1 不法行為の成否
前記のとおりであるから、本件各手紙が掲載された本件書籍を出版した被告らの行為は、本件各手紙に係る原告らの複製権を侵害する行為に該当し、また、「Gが生存しているとしたならばその公表権の侵害となるべき行為」(著作権法60条)に該当する。
被告Eは、本件各手紙が、Gの未公表の手紙であり、これを本件書籍に掲載して出版すれば、著作権を侵害することを認識していたものと認められるから、右複製権の侵害行為及び著作権法60条の規定に違反する行為をするにつき、故意又は過失があったといえる。また、被告会社は大手の出版会社であり、被告Dは被告会社の第一出版局長の職にあって、出版活動に従事していたのであるから、書籍を出版するに際して、他人の著作権を侵害することがないよう注意すべき義務があったといえる。しかるに、右注意義務を怠ったのであるから、右複製権の侵害及び著作権法60条の規定に違反する行為をするにつき、過失があったといえる。
したがって、被告らの行為は、右複製権を侵害し、また、著作権法60条の規定に違反し、共同不法行為を構成する。
2 損害額
そこで、被告らの右複製権侵害及び著作権法60条の規定に違反する共同不法行為によって生じた損害について検討する。原告らに生じた損害額は、以下のとおり算定するのが相当である。
被告会社は、本件書籍を価額1429円(消費税を除く。)で、約9万冊(90527冊)を販売したこと、その販売総額は約13000万円弱であること、書籍を出版する場合の著作権の使用料は、販売額のおおむね10パーセントと解するのが相当であること、さらに本件書籍中における本件各手紙の占める分量的割合、Gの執筆に係る本件各手紙の本件書籍に占める重要性等一切の事情を考慮すると、複製権侵害によって、原告らに生じた損害額は、右販売総額のおおむね4パーセント弱に当たる500万円と認めるのが相当である。
よって、原告らそれぞれが被った損害額は、右金額の2分の1に当たる250万円となる。
なお、原告らは、複製権侵害による損害は、被告会社が本件書籍を販売したことによる利益額を基礎として算定すべきであると主張するが、原告ら自らは、書籍の出版を行っていないことに照らして、採用できない。さらに、著作権法60条の規定違反による損害を認めることもできない。
三 争点3(名誉回復措置)について
前記のとおり、本件書籍を出版した被告らの行為は、「Gが生存しているとしたならばその公表権の侵害となるべき行為」(著作権法60条)に該当する行為である。ところで、①被告会社は、本件書籍を出版するに当たり、平成10314日付朝日新聞朝刊の第二面に、五段抜きの大きさで、本件書籍の広告をしたり、被告会社の発行に係る「週刊文春」の同月12日号と同月19日号に、延べ七頁にわたる特集記事を掲載したり、同月26日号の「週刊文春」に、一頁ほとんど全部を使って、全面広告を行ったりして、大々的に宣伝広告を実施したこと、②原告らは、被告らに対し、平成10314日付け内容証明郵便によって、本件書籍の出版は、著作権を侵害する旨警告し、本件書籍の出版の中止、既に発行された本件書籍の回収、損害賠償並びに朝日新聞及び週刊文春等本件書籍の広告を掲載した出版物への謝罪広告の掲載を求めたにもかかわらず、被告らは、原告らの警告に従うことなく、著作権法60条に違反する行為を継続したこと、③本件書籍は、短期間であるが、9万冊を超える部数が販売されたこと、④本件各手紙は、Gと被告Eとの間で、個人的に交わされた私的な手紙であり、その文体、内容に照らし、およそ第三者への公表を念頭に置かずに書かれたものであること、⑤被告らは、今日に至るまで、Gの社会的な名誉声望を回復するために適切な措置を採っていないこと等の事情を総合すると、Gの社会的な名誉声望を回復するためには、著作権法1161項、115条により、同人の名誉回復のための適当な措置として、広告文の掲載を命ずることが必要と解される。
そして、前記認定した本件に関する一切の事情を考慮すれば、名誉回復のために必要な範囲の事実経過を広告文の内容として摘示、告知すれば足りるものと解される。したがって、別紙広告目録()二記載の内容の広告文を、同目録一記載の新聞に、同目録一記載の条件で掲載するのを相当と解する。
四 以上のとおりであるから、原告らの請求は、主文の限度で理由がある。

[控訴審]
当裁判所も、被控訴人らの本訴請求は、原判決が認容した限度で理由があり、その余は理由がないと判断する。その理由は、次のとおり付加するほか、原判決の事実及び理由「第三 争点に対する判断」と同じであるから、これを引用する。
(当審における控訴人らの主張に対する判断)
一 不法行為の成否について
控訴人らは、本件書籍に本件各手紙が公表された当時、素人はもとより専門家でも、手紙の著作物性について確かな見解(司法判断の予測)を持することは不可能であり、手紙の著作物性は誰にも知られていないに等しく、国民の依拠すべき法は、事実上存在しなかったから、控訴人らには、故意がないのはもちろん過失もないと主張する。
1 著作権法は、著作物を「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。」と定義し、特に「手紙」を除外していないから、右の定義に該当する限り、手紙であっても、著作物であることは明らかである。この点について、手紙の著作物性は誰にも知られていなかったとか、国民の依拠すべき法が事実上存在しなかったとか、ということはできない。
2 (証拠)によれば、1975(昭和50)年710日付け週刊文春(141頁)には、交際相手にあてたFの私信が受取人により「週刊朝日」に公開されたことに関し、「作家の著作権は私信にも及ぶというのが法解釈上の通説だそうで、確かに『手紙』を公開するには夫人の了解が必要だろう。」、「3月10日に朝日側が著作権侵害を認めた念書を渡すまで、両者の交渉は延々と続く。」、「著作権者の了解をとらなかっただけに、どうも朝日側の分が悪かったとみえる。」との記載があることが認められる。週刊文春が、一流の出版社であることを被控訴人らも認める控訴人会社によって発行される一般向け週刊誌であることは当裁判所に顕著であるから、右記載は、適切な裏付けのもとに書かれたものと推認される。
 右認定の事実によれば、昭和50年ころには既に、交際相手にあてた私信という程度の手紙も著作物(すなわち、思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの)であること、及び、右のような手紙にも著作者の著作権が及ぶということが、週刊文春のような一般向け週刊誌にも、「法解釈上の通説」として説明される程度の事柄であったことが認められる(ちなみに、当庁第六民事部の書棚の入門書、実務書等にも、「問17・・・日記や手紙を発表するのは、著作者人格権侵害になりますか。・・・日記や手紙は、やはり著作物である場合が多いわけですから、著作物である以上は、人格権の問題が起こる。原則的には普通の著作物と同じように、公表については著作者の同意がいるということになります。死後であれば遺族の諒解を得なければいけないということになる。・・・もちろん、著作権は手紙を出したほうにある。・・・もらった手紙であるからといって、それを勝手に本にするとかいうことはいけない。複製権の侵害と、人格権の侵害と、両方ひっかかってくるおそれがあるということですね。」(J・K著「新著作権法問答」80頁・株式会社新時代社19721210日第二刷発行)、「書簡の内容が、発信人の思想、感情を創作的に表現している場合は、文書の著作物として著作権が発生する。・・・著作権のある書簡の著作権者は発信人であり・・・これが発信人以外の者(受信人も含めて)により公表される場合、発信人の許諾が必要なことはいうまでもない。」(社団法人著作権資料協会編「著作権事典 改訂版」162頁・株式会社出版ニュース社昭和601025日発行)、「Qー58 日記・手記は著作者に無断で公表できますか。書簡の場合はどうですか。いずれも著作者に無断で公表できない。創作したものを公表するかしないかは著作者の自由である・・・書簡の場合には、受取人は書簡の所有者にすぎず、著作者は発信人であるから、受取人の了解を得ただけでは発表できないのである。」(L編「新版Q&A著作権入門」146頁(M執筆)・世界思想社1991101日発行)、「手紙も日記も著作物。その著作権者の許諾なしに転載できない。・・・なお、手紙や日記の所有者は、著作者でもなければ著作権者でもない場合が多い。」(N編著「著作権実務百科」一194四頁ないし95頁・学陽書房1992115日発行)、「書簡 時候の挨拶、転居通知、出欠の問合わせなどの日常の通信文とか、品物の発注、代金の督促など商用文は著作物とはなりえないが、その他の書簡であって文芸、学術の範囲に属すると認められるものについては著作物として保護される。この場合・・・特約なきかぎり著作権は差出人に留保される。したがって名宛人は差出人の同意を得ることなしに書簡を公表することはできない。」(I著「著作権法概説」87ないし88頁・株式会社一粒社平成9520日第八版第一刷発行)等、手紙の著作物性を説明し、その著作権は著作者(発信人)にあるとする記述がみられるところである。)。
3 本件各手紙(本件書籍中の掲載頁は、原判決に記載されたとおりである。)を読めば、これが、単なる時候のあいさつ等の日常の通信文の範囲にとどまるものではなく、Fの思想又は感情を創作的に表現した文章であることを認識することは、通常人にとって容易であることが明らかである。また、控訴人らが本件各手紙を読むことができたことも明らかである。そうである以上、控訴人らは、本件各手紙の著作物性を認識することが容易にできたものというべきである。控訴人らに過失がないとの主張は、採用することができない。
二 差止めについて
1 著作権法60条ただし書きの適用の主張について
 控訴人らは、種々の事情をあげて、本件各手紙の公表はFの意を害しないと主張する。
しかし、控訴人ら主張に係る⑦の事情を認めることができないのは、前記一及び原判決の事実及び理由「第三 当裁判所の判断」一2のとおりである。そして、本件各手紙が、もともと私信であって公表を予期しないで書かれたものであることに照らせば(例えば、本件手紙⑮には、「貴兄が小生から、かういふ警告を受けたといふことは極秘にして下さい。」との記載がある。右のような記載は、少なくとも書かれた当時は公表を予期しない私信であるからこそ書かれたことが明らかである。)、控訴人ら主張に係るその余の事情を考慮しても、本件各手紙の公表がFの意を害しないものと認めることはできない。
2 頒布の差止めについて知情の主張・立証がないとの主張について
控訴人らは、頒布が禁止されるのが「情を知って」の場合に限られることは、著作権法11312号が明文をもって定めるところであるのに、被控訴人らは、頒布差止め請求についての「情を知って」という要件を主張していない旨主張する。
しかし、著作権法11312号は、著作権侵害行為、著作者人格権侵害の行為や著作権法60条の規定に違反する行為によって作成された物がいったん流通過程に置かれた後に、それを更に転売・貸与する者を全部権利侵害とすることには問題があるために、その場合に限って「情を知って」との要件を付加しているものと解すべきであり、控訴人らは、本件各手紙を本件書籍に掲載して出版した当の本人であって、物がいったん流通過程に置かれた後に、それを更に転売・貸与する者ではないから、控訴人らの行為は、同法11312号にいう「頒布」の問題として扱われるべき事柄ではないというべきである。
控訴人らは、本件各手紙を本件書籍に掲載して出版行為をすること自体が許されなかったのであるから、右違法な行為によって自らが作成した物を自ら頒布することもまた許されないことは、むしろ自明である。すなわち、本件各手紙を本件書籍に掲載して出版したうえで頒布するという控訴人らの一連の行為全体が、全部であれ一部であれ、複製権を侵害する行為及び著作権法60条の規定に違反する行為に該当するというべきである。
3 信義誠実義務違反、権利濫用の主張について。
() (証拠)及び弁論の全趣旨によれば、Fの遺族は、その了解なしにFの手紙が公表、複製された場合には、そのテーマが同性愛であるか否かとは関係なく必ず抗議し、その手紙が掲載された書籍の出版継続を阻止していること、現在は右遺族の了解の下に出版されている書籍の中にも、出版当初了解を得ていなかったために抗議を受け、著者及び出版者の謝罪、書籍の残部の断裁等が行われ、了解が得られるまで10年以上の間出版が中止された、という経緯のあるものがあることが認められる。
() 本訴が著作権及び著作者人格権に関するものであることに右()の事実を総合して考慮すれば、被控訴人らが本件各手紙の存在を知らなかったこと、本件各手紙は文学作品として書かれたものではないこと、差止めによる控訴人ら側の損害、控訴人Cが芥川賞候補にもなった有望な新人作家であること、本件書籍の文学的水準、Fという文学者の正確なイメージを伝えるという目的、その他本件証拠によって認められる一切の事情を斟酌しても、それゆえに、被控訴人らが、著作権侵害を受忍しなければならないとか、被控訴人らが同法1161項所定の権利を行使することが許されず、結果的に著作権法60条の規定にもかかわらず控訴人らがFの著作者人格権の侵害となるべき行為をすることが放置されるとか、と解することはできない。したがって、本訴差止請求を信義誠実義務違反、権利濫用と認めることはできない。
4 憲法21条違反の主張について
控訴人らは、本訴差止請求は、同性愛者に対する差別感情に基づき、本来ならば公表を差し止める意思も必要もない手紙の著作権に名を借りたものであると主張するが、これを認めるに足りる証拠はない。前記3()()の事情、特に、右差止めは、本来、控訴人らが控訴人ら自身の思想、感情を創作的に表現することを差し止めようとするものではなく、控訴人らが、控訴人ら自身の思想、感情を創作的に表現するのに役立てるためとはいえ、他人の思想、感情の創作的表現を複製、公表することを差し止めようとするものにすぎないものであることに照らせば、本訴差止請求を認めることを憲法21条に違反するものということはできない。
三 名誉回復措置について
1 控訴人らは、本件各手紙は、Fの名誉や声望を低下させるようなものを一切含んでいないから、名誉回復措置の請求はできないと主張する。
しかし、著作物の公表権は著作者にあるから、本件各手紙を公表することは、Fが生前、本件各手紙を公表することを了解していたか(私信であっても、事前又は事後に著作者が公表を了解することは、十分あり得ることである。)、又は、その遺族が公表を了解した(すなわち、公表に対して、Fが存していたとしたならその著作者人格権となるべきものの保護のための措置を採らないことを約束した)という世人の誤解を招くものということができる。そして、世人が右のように誤解すれば、これによりFの社会的名誉声望が低下することは明らかである。すなわち、本件各手紙は、Fの思想又は感情を個性的に表現したものではあるものの、公表を予定しない私信であることがあずかって、少なくとも控訴人らからは、「氏の文名を貶めこそすれ、高めるに資するようなものではない」(原判決)、「中学生風の言いまわし・・・どこの言葉か判らぬ単語・・・悪趣味な表現・・・本当にF氏が書いたのかと、首を傾げざるを得ないことになるのである」(同)と評価されているものであるから、その文学的・内容的水準を右と同様に評価したうえ、このような低い水準のものについてF自身が公表を了解した、あるいはFは肉親である遺族からこのような低い水準のものでも公表を了解するであろう人物と思われているからこそ遺族が公表を了解したのであろうなどと誤解して、Fの文学性や品性に対する評価を下げる者が出ることは、避けられないところであるからである。
2 控訴人らは、原判決別紙広告目録()の広告文について、①「私どもがご遺族に無断で公表、出版したものであります」という部分は、遺族らには公表につき承諾を与える権原がないから、法の論理に反する、②「これにより、大変ご迷惑をおかけしました」という部分は、誰に迷惑をかけたのかが曖昧であり、著作権法115条による「適当な措置」を要求し得ない遺族に対して迷惑をかけたと詫びさせるのは道理に合わないし、故人に対して詫びさせるのもおかしいと主張する。
しかし、著作権法は、著作権者の遺族は、故意又は過失により、著作者が存しているとしたならばその著作者人格権の侵害となるべき行為をした者に対し、同法115条の適当な措置を請求できることとしており(同法1161項、60条)、その意味で、遺族が、著作権者の死後において著作者の人格的利益を保護する権利を有することを認めているのであるから、その権利者である遺族に「無断で公表、出版した」ものであることをも明らかにすることが、Fの名誉声望を回復するために適当な措置の一つとなることは、明らかというべきである。このことは、前記1において説示したとおり、本件各手紙の公表について、遺族が了解したと誤解されるおそれがあることからも明らかである。控訴人らが、遺族が同法115条の適当な措置を請求できないことを前提として右主張をするものとすれば、それは失当である。
また、「これにより、大変ご迷惑をおかけしました。」との部分は、控訴人らが、本件書籍の出版により、F又はその遺族が本件各手紙の公表に了解を与えたものと、広告文の読者に誤解を与えたことを、読者にとっての迷惑ととらえ、これについて謝罪したものと優に理解することができ、新聞掲載の広告文の一部であることを前提にすれば、これが最も自然な理解というべきである。この点についての控訴人らの主張も採用できない。
以上のように解して原判決主文第四項のとおり広告の掲載を命じたとしても、憲法に違反するものではない。
3 控訴人らは、原判決が、広告文の掲載を命じることを必要とするものとした事情①ないし⑤について、名誉声望とは何の関係もない事項であると主張する。
しかし、右①ないし⑤が、Fの名誉回復のための適当な措置として、広告文の掲載を命じるか否かの判断に当たって重要な要素であることは明らかである。例えば、①及び③は、本件各手紙が多数の者に公表されたために名誉声望の低下が大きいことを裏付ける事実、②は、本件各手紙の公表権侵害について、「被控訴人らがFの人格的利益を低く見て事実上保護していなかったためであり、被控訴人ら(ひいてはF)の自業自得である」というような事情がないことを示す事実、④は、将来の公表の可能性を念頭に置いていた場合(例えば、著名作家への手紙については、将来往復書簡集として刊行される可能性を考える場合もある。)には、表現にも注意することは当然であるから、それでもなお本件各手紙の程度のものを書いたとすれば、多少の文名の低下はやむを得ないというべき場合もあり得るが、本件はそのような場合ではないことを示す事実、⑤は、控訴人らが既にFの社会的な名誉声望を回復するための適切な措置を採っていれば、その内容によっては、広告文が必要なくなったり、あるいは、掲載場所や大きさが小さくてすんだりする場合もあるが、本件はそのような場合ではないことを示す事実であり、これらの事情を考慮することは当然である。
控訴人らの主張は、採用することができない。
四 損害賠償について
控訴人らは、何人かの文学評論家が控訴人Cの文学を評価し、本件各手紙の本件書籍における重要性に言及していないことを根拠として、損害賠償についての原判決の判断を非難する。
しかし、著作権侵害による損害賠償は、文学的価値ではなく財産的価値の侵害による賠償であって、Fと控訴人Cの知名度や文学者としての名声を比較すれば、本件各手紙が本件書籍において、財産的に重要なものであること、すなわち、本件書籍購入の意欲をそそり、本件書籍の商業的成功をもたらすという点で重要なものであることは明らかである。評論家が、文学的観点から、控訴人Cの文学を評価し、本件各手紙の重要性に言及していないとしても、そのことによって、本件書籍における本件各手紙の商業的重要性が否定されるものではない。
また、控訴人らは、本件各手紙が著作権者によって公表される可能性はゼロ、したがって逸失利益もゼロというのが通常の感覚であると主張する。
しかし、本件各手紙は、著名な文学者であるFの著作物であるから、その文学的価値が高いか否かはともかくとして、これについての著作権に相当な財産的価値があることは明らかである。そして、このように財産的価値のある著作権を侵害された場合には、著作権者に損害が発生すると推認すべきであることは当然である。控訴人らは、本件各手紙が著作権者によって公表される可能性がゼロであると主張するが、これを認めるに足りる証拠はない。本件各手紙を公表すればFの名誉声望が低下することはあるとしても、そのことを受忍した場合には、著作権者において本件各手紙を複製して販売する等して経済的利益を得ることが容易であることは明白である。そうである以上、そのようにして経済的利益を得るか否かは、著作権者の意思次第であって、著作権者である被控訴人らがそのような選択をする可能性がゼロなどということは到底できないのである。控訴人らの主張は、採用できない。