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著作権判例セレクション
【表現形式が異なる著作物間の侵害性】伝記的物語vs大河ドラマ
▶平成6年7月29日名古屋地方裁判所[昭和60(ワ)4087]▶平成9年05月15日名古屋高等裁判所[平成6(ネ)556]
二 原告作品の内容について
証拠によると、原告作品について以下の事実が認められる。
1 原告作品は、女優というものの存在しなかった我が国において初めて女優として活躍した貞奴の生涯を描いた【伝記的物語】であり、その本文は序章から終章までの10章からなり、「あとがき」、「川上貞奴関係年表」及び「参考文献」の項が付されている。
2 原告作品は、【貞奴を女優への偏見に満ちた明治大正の日本で女優の道を開いた開拓者と定義づけ、同人の自我と主体性を問うという視点からあらためて同人を評価すべく】、丹念に資料を掘り起こし、原資料及び参考文献を洗い直し、関係者より聴き取りをし、選び出した素材に新たな光を当て、構成をして、貞奴75年の生涯を詳細に再生し、その実像を求めた【伝記的物語】である。その叙述の特徴は、当時の新聞・演劇雑誌等からの引用を多用し、資料に基づく具体的な記述を積み重ね、部分的に原告の創作的表現を交えて、貞奴の人物像を具体的に描き出そうとしたところにある。
したがって、原告作品の本文中には、引用を示すと思われる「〈 〉」で囲まれた箇所が相当多数存在し、その末尾に出典が示されているものもある。また、末尾に掲げられた参考文献のほか、本文中でも文献の紹介をしている(例えば、第四章中の「ヨーロッパ客演旅行」の箇所でその実態に触れた文献(115頁)を、また、第八章中の「身に累を招く」の箇所で桃介に関する文献(234頁)を、それぞれ紹介している。)。
3 その梗概をみると、序章「厄年の決断」では、貞奴が33歳で初めて女優として日本の舞台に立った事実を取り上げ、当時の困難な社会的状況の中で身をもって女優の道を切り開いたとして、作品全体のテーマを示し、第一章「酒の肴の物語」では、貞奴の生い立ちから音二郎と知り合う直前の20代前半までを、第二章「書生演劇」では、音二郎の出自とその活動の様子から貞奴と結婚して劇場を建築しこれを失うまでを、第三章「梨園の外道」では、音二郎・貞奴の築地出帆からアメリカ巡業までを、第四章「1900年パリ万国博覧会」では、貞奴がパリ万国博覧会で博した名声とこれと対照的な国内での否定的劇評、川上一座のヨーロッパ客演旅行の足跡を描き、第五章「女優開眼」では、貞奴の33歳の一年間の女優業のパイオニアとしての活躍を、第六章「劇界の戦国時代」では、新派の分裂拡散期に新派の旗頭として活動する音二郎・貞奴夫妻を、第七章「貞奴一座」では、帝国座の落成から音二郎の死を経て貞奴の引退興行までを、第八章「かくれ里」では、女優貞奴の引退から名古屋の「二葉御殿」住まいまでの六年間を、終章「惜別の宴」では、桃介への惜別とこの世への惜別をかけて貞奴の60歳前後から晩年までを、それぞれ描いている。
4 原告作品において叙述されている事項の要旨は、別紙四「「女優貞奴」の叙述事項」のとおりである。
5 原告作品において取り上げられている人物は、別紙二「女優貞奴の構図」に記載されたとおりであり(括弧内の人名を除く。)、いずれも歴史上実在した人物である。そして、貞奴については、人物の心情の動きにまで踏み込んで記述されているが、音二郎、桃介、房の心情に関する記述が一部に見られるほかは、いずれも歴史上の人物としてその業績、行動等が客観的に記述されているに過ぎない。
三 本件ドラマによる著作権侵害の成否について
(略)
3 翻案権侵害の成否について
(一) 著作物についてその翻案権の侵害があるとするためには、問題となっている作品が、右著作物と外面的表現形式すなわち文章、文体、用字、用語等を異にするものの、その内面的表現形式すなわち作品の筋の運び、ストーリーの展開、背景、環境の設定、人物の出し入れ、その人物の個性の持たせ方など、文章を構成する上での内的な要素(基本となる筋・仕組み・主たる構成)を同じくするものであり、かつ、右作品が、右著作物に依拠して制作されたものであることが必要である。
【そして、著作物が文芸作品の場合、その主題(テーマ)と題材及び筋(ストーリー)は、主題によって題材が収集され、収集された題材は主題によって取捨選択されて整えられ、筋立てられて筋、構成が形成され、こうして形成された筋、構成において主題が表現されるという点で、右三者は相互に密接な関係にあり、その中でも、主題が文芸作品における最も重要な生命ということができるが、しかし、他面、伝記を含めた文芸作品の主題はその基本的な筋、構成によって表現されているものであって、基本となる筋、主たる構成と離れて存在しているものではない以上、このような文芸作品の翻案の判断においては、あくまでも基本的な筋、構成と一体として考慮すべきものであり、そのような筋、構成と離れて抽出される抽象的な主題そのものの同一性をもってこれを判断すべきではないというべきである。】
ところで、原告作品は、前示のとおり、実在した人物の【伝記的物語】であり、歴史上の事実を記述し、又は新聞、雑誌、他の著作物等の資料を引用し、若しくは要約して記述した部分が、その大部分を占める。そして、このような場合には、著作者の思想又は感情を創作的に表現したものとして著作物性を有する部分(独創性のある部分)についての内面形式が維持されているかどうかを検討すべきであり、歴史上の事実又は既に公にされている先行資料に記載された事実に基づく筋の運びやストーリーの展開が同一であっても、それは、著作物の内面形式の同一性を基礎付けるものとは言えない。
(そして、右のような意味での原告作品の内面形式の特徴は、当時の新聞、雑誌、関係者の供述等の一次的資料から引用又は要約した客観的な事実を積み重ね、部分的に原告の創作的表現を交えて、我が国初の女優として主体的に生きた貞奴の人間像を具体的に描き出そうとしたところにあるものと言える。)
(二) そこで、前記二、三1、2判示の事実を前提として、原告作品と本件ドラマとを比較すると、次の点を指摘できる。
(略)
(三) 次に、原告の類似箇所の主張(請求原因5(二))について検討する。
原告は本件ドラマによる翻案権の侵害を主張するものであるから、前示のとおり、本件ドラマと原告作品との内面形式の同一性の有無を判断すべきであり、本件ドラマの表現中に部分的に原告作品の表現と類似する箇所があるとしても、そのような類似が基本となる筋・仕組み・構成に関わるものであるために内面形式の同一性が基礎づけられることとなる場合はともかく、基本となる筋・仕組み・構成には関わらないいわば末節の表現が類似するにとどまる場合には、内面形式の同一性の判断には影響しないものと言うべきである(なお、そのような末節の表現の類似であっても、著作権侵害の成立のためのもう一つの要件である依拠性の判断に当たっては、判断要素の一つとなる。)。
(略)
(四) 以上一、二、三(一)ないし(三)において判示したところによると、本件ドラマの基本的筋については、原告作品と一部共通しており、また、本件ドラマには部分的に原告作品の表現を参考にして作成されたと見られる箇所が存在する。
その点と、前記三1(三)において判示したように、本件ドラマの制作過程において原告作品が資料の一つとして利用されたことからすると、本件ドラマは、原告作品を重要な参考資料として制作されたものと認められる。
しかしながら、原告作品と本件ドラマとでは、前示のとおり、分量、対象とする年代、叙述の対象、登場人物、描写の方法、取り上げるエピソード等の内容、貞奴の描写、他の主要人物の描写のいずれの点においても大きな相違があり、両作品を全体として比べると、基本的な筋、仕組み、構成のいずれの点においても同一とは言えないから、両作品は、内面形式の同一性を欠くものと言うべきである。
なお、本件ドラマ中には、原告作品と部分的に基本的な筋が同一であると見られる箇所が存在する(例えば、音二郎が書生演劇を興すまでの経緯、川上一座のアメリカ巡業、帰国後貞奴が女優として活躍する状況等)が、同一と見られる箇所は、いずれも【かなり知られた】歴史上の事実であって(後記四2(三)の判示参照)、原告の創作に係るものとは言えないから、原告作品と本件ドラマの内面形式の同一性を基礎付けるものとは言えない。
したがって、本件ドラマの制作は、原告の翻案権を侵害するものとは言えない。
なお、ドラマ・ストーリー、被告協会が発表した広報資料並びに被告らが本件ドラマの原作であるとするDの「マダム貞奴」及び「冥府回廊」がどのようなものであるかは、依拠性の判断においては重要な判断要素となるが、本件ドラマと原告作品との内面形式の同一性の判断【とは直接には関係するものではないから、ここで】これを検討する必要はないと言うべきである。
【そして、本件ドラマと控訴人作品とが内面形式の同一性を欠くことは前示のとおりであるから、本件ではこれ以上依拠性の判断を進める必要はない。】
【4 放送権侵害の成否について
控訴人は、本件ドラマが控訴人作品の二次的著作物であるとし、これを前提に本件ドラマを放送したことが放送権侵害に当たる旨主張するが、右3で判示したとおり、本件ドラマの制作は控訴人作品の翻案には当たらず、したがって、本件ドラマは訴訟人作品の二次的著作物とは言えないから、本件ドラマの放送が控訴人の放送権を侵害するものとは言えない。】
四 ドラマ・ストーリーによる著作権侵害の成否について
1 証拠と弁論の全趣旨によると、ドラマ・ストーリーの内容及び制作の経緯について、以下の事実が認められる。
(一) ドラマ・ストーリーが掲載された本件書籍は、本件ドラマの放送開始に合わせて発行された番組視聴者のためのガイドブックであり、他に、D、被告Aらのエッセイ、本件ドラマの配役の紹介、対談、グラビア特集等が掲載されている。
(略)
2 複製権侵害の成否について
(一) 複製とは印刷、写真、複写、録音、録画その他の方法により有形的に再製することを言う(法2条1項15号)が、原著作物とまったく同一ではなくとも、これに多少の修正増減を加えた程度のものを作成することも含まれると解される。
(二) ところで、原告作品とドラマ・ストーリーとを比較すると、その叙述内容は別紙四及び別紙六のとおり相違している。
(三) さらに、原告の指摘する別紙三記載の類似箇所について、検討する。
(略)
3 翻案権侵害の成否について
(一) 翻案権侵害の判断の基準は前記三3(一)において判示したとおりであり、右の基準に照らして、前記二、三及び右1の判示事実を前提として原告作品とドラマ・ストーリーとの内面形式の同一性の有無について検討する。
(二) 原告作品の特徴は前示三3(二)のとおりであるところ、ドラマ・ストーリーの特徴としては、以下の点が指摘できる。
(略)
(三) 原告指摘の類似箇所(別紙三)については、前記2(三)において判示したとおりであり、その大部分は、いずれも歴史上の事実であるか又は先行資料に記載された事項である。
(四) 右(二)、(三)に判示したところによると、原告作品とドラマ・ストーリーの全体を比較した場合には、分量、対象とする年代、登場人物、描写の方法、叙述されている事項、人物の描写のいずれについても異なっており、【したがって、】基本となる筋・仕組み・構成はいずれも異なると言うべきである【から、両者はその内面形式が同一であるとはいえない】。
なお、ドラマ・ストーリーのうち第四章「日本脱出」及び第五章「海外巡業」の全部、第六章「女優第一号」の後半部分並びに第七章「劇界改造」の部分は、そのほとんどの事項が原告作品の叙述事項と共通しているところであり、原告作品独自の表現と類似する箇所もいくつかあることから、この部分は原告作品に依拠して作成されたものとみるべきである。しかしながら、右の部分の大部分は、いずれも歴史上の事実であるか又は先行資料に記載された事項であって、その基本的な筋・仕組み・構成自体は、原告の創作に係るものとは言えないから、このような部分が共通しているからといって、著作物たる原告作品とドラマ・ストーリーとの内面形式が同一であるとすることはできない。
したがって、ドラマ・ストーリー【の製作、出版は、控訴人作品の翻案権を侵害するものとは言えない。】内面形式が同一であるとは言えないから、原告作品を翻案したものには当たらないと言うべきである。
五 【人物事典の製作、出版】による著作権侵害の成否について
まず、別紙三の58イの貞の身長等に関する表現は、事実の記述である。また、同ロの記述については、貞は一旦浜田家から加納家へ引き取られたが、そこの長男が「貞ちゃんは今に僕のお嫁になるんだよ。」と言うのを聞き、加納家を逃げ出したとの先行資料がある。さらに、原告作品の当該箇所は、原告が川上富司から聴取した内容を記載したものである。
そうすると、原告作品の当該箇所の記載内容自体は、原告の思想又は感情を創作的に表現したもの(独創性のある部分)とは言えないから、人物事典に同じ内容の記載があることをもって(両作品の表現方法は異なっている。)、これが、原告作品の複製又は翻案に当たらないことは明らかである。
したがって、人物辞典は、原告作品の著作権を侵害するものとは言えない。
【六 本件書籍の出版による複製権侵害の成否について
控訴人は、ドラマ・ストーリー及び人物事典を含む本件書籍が控訴人作品の二次的著作物であるとし、これを前提に本件書籍を出版したことが複製権侵害に当たる旨主張するが、前記四3及び五で判示したとおり、ドラマ・ストーリー及び人物事典は控訴人作品の翻案には当たらず、したがって、これらは控訴人作品の二次的著作物とは言えないから、本件書籍の出版が控訴人の放送権を侵害するものとは言えない。】
【七 本件ドラマ等による著作者人格権(氏名表示権)侵害の成否について
右三ないし五判示のとおり、本件ドラマ、ドラマ・ストーリー及び人物事典は、いずれも原告作品の二次的著作物(又は複製物)とは言えないから、著作者人格権の侵害はない。】
[控訴審]
二 付加する当裁判所の判断
1 控訴人は、本件ドラマの制作過程についての被控訴人らの説明に矛盾があり、B作品である「マダム貞奴」「冥府回廊」は本件ドラマ等の原作ではないと主張する。
確かに、被控訴人協会が昭和59年2月に行った最初の制作発表で、B作品である「マダム貞奴」を原作としてあげなかったことなど、本件ドラマの制作過程で、当初控訴人作品がどのような扱いをされたのかを含め、本件各証拠上不分明な点がないではない。これに関連して、控訴人は、本件ドラマは被控訴人らが原作であるという「マダム貞奴」「冥府回廊」の二次的著作物ではないとし、原判決がこの点の判断を避けていると非難する。しかし、本件ドラマ等とB作品の関係は、本件ドラマ等による控訴人作品に対する著作権侵害を訴訟物とする本訴請求においては、間接的な事実であって、本件ドラマ等が「マダム貞奴」や「冥府回廊」の二次的著作物に当たらないからといって、そのことが直ちに本訴請求の成否につながるわけではない。したがって、この点につき、原審が判断を示さなかったことは格別不当なこととは認められないし、本件ドラマの制作過程の説明に矛盾のあることは、控訴人作品を基に本件ドラマが制作されたことを裏付けるものであるとの主張も、独自の見解であり、論理に飛躍があると言わざるを得ない。
2 控訴人は、ドラマ・ストーリー全部の複製権侵害のみを主張しているのではなく、一部の複製権侵害を主張してきたのに、原審はそれに対する判断を欠いていると非難する。
しかし、原審における控訴人の主張を精査しても、一部侵害の主張を確定的にした形跡は認められない。例えば、控訴人の昭和63年2月29日付け準備書面では「その盗り方は、盗作執筆者本人でなければ悉く摘出するのは困難なほど、多岐多様にして『女優貞奴』を丸ごと全面にわたって盗っている。これが本件の特徴であり、部分的な著作権侵害にとどまらず、」と記載している。
そこで、一部侵害については当審における新たな主張として検討することとするが、たしかに、著作物の限定された一部についてのみ侵害が及ぶ場合があり、この場合、当然のことながら、侵害されたという部分が特定されること及びその部分が著作物性を有することが要件となるところ、控訴人は、原判決別紙三で一部複製権侵害の範囲を特定しているとみることができる。しかし、これらは殆ど文章中の一句、一段落であり、独立して著作物性を有する範囲のものとは認められず、個々の類似部分について、著作権侵害の認められないことは原判決が詳細に判断しているところである。ただ、ドラマ・ストーリーのうち、第四章「日本脱出」、第五章「海外巡業」の大部分は被控訴人作品の題材と筋が控訴人作品と共通していると認められるのであるが、これらの部分についても他の部分と独立して著作物性を認めることができるかは疑問であるうえ、右該当箇所の大部分は、原判決も説示するとおり歴史上の事実であるか、先行資料に表れている事実である。これらの点からすると、控訴人の一部侵害の主張は結局採用することができない。
3 控訴人は、控訴人作品「女優貞奴」は「自我の主体性を自ら培ったが故に、近代日本に女優の道を開いた貞奴」の人物像を、主題、題材、筋、仕組、運び、構成(控訴人の主張する内面形式)のすべてを有機的連鎖でくくった創作であるが、本件ドラマは第一回から最終回まで控訴人作品の内面形式を維持しており、また、本件ドラマは母体である控訴人作品から派生したものであるから、控訴人作品の二次的著作物であると主張し、双方間の内面形式の同一性を否定した原判決を非難する。
これに対し、当裁判所も、控訴人作品の性格、内容それ自体については、基本的には原判決説示のように説明するのが相当であると判断するものであるが(ただし、控訴人作品を伝記そのものというよりは、それよりは広がりのある文芸作品であると解する。帯広告の「書下ろし伝記」の一字句のみをもって控訴人作品の性格を決定づけることはできない。)、控訴人の主張するところの内面形式の「維持」という概念は、「同一性」よりも広く、かつ抽象的であり、また、「派生」というのも、一方と他方との間の一定の繋がり方を示す以上には捉えにくい概念であって、権利義務の範囲を画する言葉としては曖昧であるが、この点は用語の問題でもある。当裁判所としても、同一性の名のもとに、控訴人の批判するような全き同一性を求めるものではないのである。再説すれば、筋、仕組み、主たる構成の内面形式を全体的に比較し、その上で共通性が維持され、かつ、一方が他方に依拠していることが認められるときに初めて侵害となるものである(ただし、作品の主題のみを抽出して、その類似の有無を比較することは意味がなく、このことは先に説示のとおりである。)。
しかるところ、本件ドラマは、原判決説示のように、貞奴を重要な主役の一人として、歴史上実在した人物あるいは実在しなかった多様な人物を登場させる中で、貞奴がそれらの人達の励ましを受けつつ力強く成長していく姿を描く一方、当時の時代背景の中で、貞奴、川上音二郎、福沢桃介、福沢房子らが愛憎を絡ませながら懸命に生きていく様を描いており、決して貞奴一人だけの物語ではないし、しかも、控訴人作品で控訴人が描出したという貞奴自身の生き方と、本件ドラマにおける同人自身の生き方とは、共通性もあるものの、決して同一に構成されているわけではない。たしかに、本件ドラマ等の貞奴の描写に関する限りにおいては、その主題、筋、題材においては一部重なり合うところがあるが、これは、貞奴が比較的近時における実在の人物であり、先行資料も極めて多く、双方の作品において、同一のものが多数参考にされていることからして、不可避の面があると言わざるをえない。勿論、本件ドラマ等が控訴人作品を参考にし、あるいはそこからヒントを得ている部分がいくつもあること、特にドラマ・ストーリーにおいては、何箇所かその文章の一句そのものを転用している事実のあることは原判決説示のとおりであり、当裁判所も、これと見解を一にするものである。控訴人はこれらの部分を捉えて、転用ないしは借用と言い、更には剽窃であると主張し、著作権が侵害された重要な根拠とするのであるが、既に判示のとおり(原判決引用)、これらは、歴史上知られた事実であったり、先行資料で明らかにされている事実であったり、著作権の対象となりうる独立した表現形式に対するものでなかったりの理由で採用できないところである。また、控訴人の強調する本件ドラマの最終回での貞奴の生き方を回顧する趣旨のナレーションの部分は、控訴人作品において控訴人が主題であるとする部分の一部が表現されていると見ることができるけれども、本件ドラマの主題はこれに尽きるものではないし、最終回の桃介についてのナレーションも波瀾の人生の中に同人が築き上げた大井ダムが後世への遺産としてなお役立っており、"同人の意志が受け継がれているという控訴人作品にはない内面形式が表されているところである。いずれにしても、人物観、歴史観という一種の思想ともいうべきものは、それ自体が著作権の対象にならないことは当然であるが、控訴人作品と本件ドラマの中では、貞奴の生き方それ自体の見方について、一部共通するところがあるとは認められるものの、双方作品の内面形式を全体的にみれば同一性は否定せざるをえないのであって、右一部共通するのは、この人物観というむしろアイデアあるいは思想に近い著作権法による保護範囲の外にある部分であると言うべきである。
4 なお、控訴人は、本件ドラマが放映される前に、控訴人と被控訴人間で行われた控訴人作品を巡る折衝についても、著作権侵害を裏付ける事実として主張する。
そして、証拠によれば、昭和59年3月14日に控訴人と被控訴人協会職員Cが面談したのを初めとして、弁護士も介在して、被控訴人らと控訴人が話し合ってきたこと、この過程で被控訴人会社と被控訴人Aが、ドラマ・ストーリーで控訴人作品の文章を転用した表現が数か所あることについてお詫びするとの趣旨の文書が作成され、双方代理人の間で、被控訴人会社と被控訴人Aが控訴人に対しドラマ・ストーリーの一部に控訴人作品の文章を一部無断借用したことを詫びること、被控訴人協会は本件ドラマの制作に控訴人作品が寄与するところがあったことに感謝する旨の条項のある覚書(案)が作成されたことがあったが、最終的には双方の合意には至らなかったことが認められるけれども、これらの事実も控訴人の主張を裏付けるには足りないし、翻って考えれば、控訴人作品が本件ドラマ制作の直前に発売されていたことから、被控訴人側が控訴人と接触を持とうとしたことは何の不思議もなく、被控訴人らが控訴人作品の著作権を侵害することのないよう本件ドラマ制作のうえで諸々の配慮をしたとすれば、それは当然のことであって、これをもって隠蔽工作であるとする控訴人の見方は一方的である。
5 以上、控訴人の主張に対する判断を補足的に示してきたが、当裁判所も、本訴請求はいずれも肯認できないと判断するものである。
三 よって、これと同旨の原判決は相当であり、本件控訴はいずれも理由がないから、これをいずれも棄却することとし、主文のとおり判決する。