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著作権判例セレクション

【編集著作物】『智惠子抄』の編集著作者が誰であるかが争点となった事例

▶昭和631223日東京地方裁判所[昭和41()12563]▶平成40121日東京高等裁判所[昭和63()4174]
[控訴審]
2 控訴人らは、当審において、Aが「智惠子抄」の編集著作権者である理由として、第一次案と「智惠子抄」を対比し、収録された作品の重なり方、「荒涼たる歸宅」を除く全体としての構成内容に顕著な差がないこと、BがAから第一次案の提示を受けるまでCに関する作品を集めた著作物を作る意図を持っていなかったこと、「智惠子抄」成立過程でのBの行為が第一次案に示されたAの構想の線に添って行われていることなどを挙げているので、判断する。
著作者が企画案ないし構想を提供する第三者の進言により、はじめて著作を決意し、その協力により著作物を完成するという経過をたどることは、決して稀ではなく、その場合進言をした第三者が当然に著作権者となるものではない。著作物をもととして完成される編集著作物について、第三者が進言した場合でも同様である。
編集物で著作物として保護されるのは、「その素材の選択又は配列によって創作性を有する」ことが必要であるから(著作権法121項)、Aが「智惠子抄」の編集著作権者であるというためには、その素材となったCに関するBの作品を自ら選択し配列したと認められることが必要である。すなわち、Aの編集著作というためには、「荒涼たる歸宅」のように後日制作された作品を除き、可能な限り、Cに関する作品全てを認識し把握したうえで、これら作品について必要な取捨選択を経て配列を完成するという作業がA自身によりなされることが何よりも先ず必要であって、それによってはじめて控訴人らが主張するBとCの愛を浮き彫りにした創作性ある編集著作がなされたと認め得る余地があるのであり、かかる作業がなされないまま、Bの作品の一部を集めても、それはBとCの愛を浮き彫りにするという編集著作という観点からは、企画案ないし構想の域にとどまるにすぎないものというべきである。
そこで、この点について検討するに、原判決認定のように、Aは、「風にのる智惠子」を読み感動を覚えて「道程」を読み返し、Bに対する認識を改め、更に、「レモン哀歌」、「亡き人に」、「智惠子の半生」等一連のCに関する作品に接し、どうしてもCに関する作品を系統的に収集してCの生涯を浮き彫りにするような詩集を出版したいと考えるに至ったものであるところ、Aが当時Cに関する作品であると認識していたものは、原判決の事実摘示のとおりであり、これら作品について本判決により訂正されたように内容順序表及び第一次案が作成されたものであることは当事者間に争いがないが(Aは前記作品のほか、「道程」に収録されていた「あをい雨」、「梟の族」、「冬が來る」もCに関する作品と考えていたが、結局第一次案にこれら作品を取り入れなかったことは原判決認定するとおりである。)、「智惠子抄」に収録されていて第一次案に欠落しているか又は題名のみが記載されている作品について検討すると、本判決により削除、訂正、付加された原判決の認定によれば、「智惠子抄」に収録されていて第一次案に欠落している作品である「狂奔する牛」、「鯰」、「夜の二人」、「同棲同類」、「美の監禁に手渡す者」、「人生遠視」、「荒涼たる歸宅」、「うた六首」及び「九十九里濱の初夏」のうちAがその作品の存在を認識していたものは、「道程」(改訂版)中に存在したことから第一次案提出後にその存在に気付いて「智惠子抄」への収録をBに進言した「狂奔する牛」、「鯰」の二編の詩及び昭和167月刊行の雑誌「新若人」に掲載された散文「九十九里濱の初夏」のみであり、右以外の作品については、いずれもB自身が、自分の手元にあった詩稿等の資料から選択し、「夜の二人」、「人生遠視」、「荒涼たる歸宅」、「うた六首」については自筆原稿を、「同棲同類」、「美の監禁に手渡す者」についてはこれが掲載された雑誌の切抜を、それぞれAに交付してその収録の指示をしたものであって、これらの作品については、AはBに収録を指示されて初めてその存在を知ったものであること(なお、Aが、これらBに収録を指示された作品について、その存在を認識していなかったことについては、当事者の主張内容からみて、当事者間に争いがないものと思われる。)、また、第一次案に題名のみが記載されている「あどけない話」、「樹下の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」の三編の詩についても、その全文が「智惠子の半生」に引用されている「あどけない話」以外の二編は、その内容の一部分を知っているのみであったことによれば、「狂奔する牛」及び「鯰」はいずれも「道程」(改訂版)及び「現代詩人全集第九巻」(新潮社)に、「夜の二人」は「現代日本詩集」(改造社)及び「現代詩人全集第九巻」(新潮社)に、「同棲同類」は「現代日本詩集」(改造社)に、「人生遠視」は「現代詩集第一巻」(河出書房)に、「樹下の二人」は「道程」(改訂版)、「現代日本詩集」(改造社)及び「現代詩人全集第九巻」(新潮社)に、「あどけない話」は「現代日本詩集」(改造社)及び「現代詩人全集第九巻」(新潮社)に、"「あなたはだんだんきれいになる」は「現代詩人全集第九巻」(新潮社)に掲載されていることが認められる。この事実によれば、第一次案において欠落し又は題名のみが記載されたCに関する作品のうち、第一次案の提出後に制作された「荒涼たる歸宅」、第一次案の提出後の昭和167月刊行の「新若人」に掲載された「九十九里濱の初夏」は別論として、第一次案提出以前に公表されている作品については、雑誌「鬣」に掲載された「美の監禁に手渡す者」を除き、いずれも第一次案作成以前に刊行され市販されているBの詩集、全集又は雑誌類である「道程」(改訂版)、「現代日本詩集」(改造社)、「現代詩人全集第九巻」(新潮社)、「現代詩集第一巻」(河出書房)のいずれか一つ又は二つないし三つに収録されており、更に、前記のとおり、うた六首は現代短歌集、中央公論、知性に収録されており、右書籍又は雑誌から右作品を見い出し抽出することはさして困難な作業とは認められない。また、「美の監禁に手渡す者」が掲載されている雑誌「鬣」は同人誌であって入手が容易でないと推察されないではないが、原判決認定のように若い頃から文学に親しみ、自ら詩に関する雑誌を主宰し、その後龍星閣の名で詩を含め文学関係の本を出版しているAにとっては調査をしさえすれば、少なくとも、掲載されている右の詩の存在を知ることは可能であったものと推認される。しかるに、原審における被告本人尋問の結果によれば、Aは自己がCに関するものとして認識していた前記の作品以外のCに関する作品の存在について調査せず、したがって、これら欠落し又は題名のみを記載した作品について特に前記の文献等に当たることはしていないことが認められる。このように、入手可能な全部の作品について取捨選択の検討を欠いたまま作成された第一次案をもって、控訴人ら主張のようなBとCの愛の世界を浮き彫りにしたものと評価することはできず、"同案はBにCに関する作品を編集著作させるための企画案ないし構想の提供の域を出ないものというほかない(これまで挙示した作品のほか、大正元年9月発行の「スバル」掲載の「涙」、「からくりうた」、大正152月号の「彫塑」掲載の「金」(以上詩)、昭和105月執筆の「新茶の幻想」、昭和144月号及び5月号の「暦程」掲載の「某月某日」(以上散文)がCに関するBの作品であることは当事者間に明らかに争いがないが、これらについては、第一次案作成に当たりAがこれら作品を取捨選択の対象としたことを認めるに足りる証拠はない(原審におけるAの被告本人尋問の結果によれば、Aはこれら作品のうち「某月某日」の存在のみを知っていたにすぎないものと認められる。))。
その後出版に至るまでの経緯、すなわち当裁判所の訂正に係る原判決認定事実によって認められるAの行為のうち、Bの自筆原稿の浄書、「智惠子抄」に収録が決まった作品についての「道程」(改訂版)からの切抜の作成又は掲載雑誌からの書写し、及び、これらをBの指示に従って配列し紙挟みのようなものに挟んだことは、Bの指示に従った原稿の整理にとどまるものと評価すべきであり、その間「狂奔する牛」、「鯰」、「九十九里濱の初夏」についての選択の進言も企画案提供者として意見を述べたにすぎず、かかる事実があったとしても、「智惠子抄」がAの編集著作に係るものと認めることはできない。
これに対し、Cに関する作品の編集著作決意後のBの行為及びその評価は、前記原判決認定し説示したとおりであり、これによれば、その契機がAの進言にあったにせよ、Bは、Cに関する全作品を取捨選択の対象とし(そのことは、Bが作品すべてについて完全原稿を所持していたと否とにかかわりなく作品の掲載された雑誌、詩集、全集等の刊行物があれば可能であるし、前記「涙」、「からくりうた」、「金」、「新茶の幻想」、「某月某日」についても、自己の作品である以上当然その存在を認識し、取捨選択の対象としたものと推認して差支えない。)、全体を詩、短歌(これは第一次案には全くなかった。)、散文の順で配列することとし、第一次案に欠落していた作品及び新作の「荒涼たる歸宅」を加え、題名だけで内容が欠落していた作品の内容を補充し、「道程」により制作年月が確定していた11編の詩を除いたその余の作品についての制作年月日を確定し、或いは収録するのが相当でないと判断した作品を第一次案から削除するなどして、詩については、「荒涼たる歸宅」の例外を除き、制作年代順の配列構成とし(「智惠子抄」の目次並作品年表によれば、第一表1ないし11の「道程」に収録されていた作品については「おそれ」を除き制作年月日が「道程」に記載されていたにもかかわらず、制作年月のみを記載し、その他の作品については制作年月日を記載しており、Bが制作時の記載につき何故にかかる区別をしたのか明らかでないが、いずれにせよ詩全体の配列が制作年代順であることには変わりはない。)、また、6首の短歌、三つの散文(これは年代順配列ではない)の配列順を決めて、出版業者としてのAに原稿整理をさせたものと認められるのであり、また、Aの進言により加えられることとなった前記「狂奔する牛」、「鯰」はいずれも「道程」(改訂版)、「現代詩人全集」に、「九十九里濱の初夏」は昭和167月刊行の「新若人」にそれぞれ収録されていたものであるから、Bがこれを見落としていたとは考えられず、これら作品をも取捨選択の対象としたうえ一旦は不収録と決めたもののAの進言を採用したものと認めるのが相当である。そうであれば、「智惠子抄」は、BがCに関する作品から二人の愛を浮き彫りにしたものと自らが認めたもののうちから、当時の時局を配慮して最終的に不適切と判断したものを除き、これを配列したものと認めることができるから、Bの編集著作に係るものというべきである。「智惠子抄」と第一次案との構成、"構想の点で共通するものがあるとしても、Aの第一次案による進言の趣旨が、BによるCに関する作品の編集著作にある以上、あえて異とするに足りないところであり、そのことが「智惠子抄」の著作権者がAであると認める根拠となるものではない。
更に、控訴人らは、Aが著作権者である理由として、第二次案(出版許諾の告知から1週間ないし10日後に作品を配列、整理してBに交付したものを指称する。)と「智惠子抄」の共通性を主張するが、右第二次案がBが取捨選択したうえ配列したものに基づき作成され、これからBにより「婚姻の栄誦」、「淫心」が除外され「智惠子抄」へと継承されていくのであるから、両者に共通性が認められるのは当然であり、前同様そのことが「智惠子抄」の著作権者がAであると認める根拠となるものではない。
また、控訴人らは、Bが詩の配列について制作年代順の原則によること、「荒涼たる歸宅」については右原則を崩して「亡き人に」の直前に配列したことを指示したことを認めるに足りる証拠はない旨主張し、原審における被告本人尋問の結果中にも、「智惠子抄」の作品の配列は、全てAが作品の内容感を考慮して決定し、これに対しBも特に異論を述べなかった旨の供述部分が存在する。
しかしながら、第一次案における作品の配列が別紙付表Ⅰの記載順序であることについては当事者間に争いがないところ、(証拠)、及び、被告本人尋問の結果によれば、同配列は最初に「道程」から選択した詩(別紙付表Ⅰ1ないし14)を「道程」の収録順に配し、次に昭和15121日発行の婦人公論掲載の「智惠子の半生」に引用されている詩(同付表15ないし17)をその引用されている順に配し、次に雑誌等に掲載された詩(同付表18ないし25)を雑誌に発表された順に並べて配列し、最後に散文二編を制作年代あるいは発表年代とは関係なく配列したものであることが認められ、したがって、第一次案における作品の配列は作品の内容感を考慮したと評価し得るようなものではないうえ、右第一次案の各詩の配列において、「智惠子の半生」に引用されている三編の詩(同付表15ないし17)のみが、制作年代順に正しく配列されていないものであるところ、これら三編の詩のうち、「あどけない話」についてはその全文が引用されていたためAはその内容を知っていたが、「樹下の二人」及び「あなたはだんだんきれいになる」の各詩についてはAはその一部分を知っているのみであったことは、原判決認定のとおりであるから、第一次案の詩における制作年代順の原則に対する例外的配置は、Aが作品の内容感を考慮して決定したものと解する余地のないことは明白である。更に、原判決認定にかかる第一次案の作品の配列から現在の「智惠子抄」の作品の配列に至る経緯を基にこの点を検討するに、第一次案から削除されずに現在の「智惠子抄」に収録されている詩のうち第一次案からその順番が入れ替わったものは、第一次案では制作年代順となっていなかった「あげとない話」、「樹下の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」の三編の詩のみであるところ、これらは現在の「智惠子抄」においては正しい制作年代順になるように入れ替わったにすぎないものであるが、これら三編の詩の制作年月日を確定したのはBであること、第一次案の後に追加収録された各詩は、Aの進言により追加されたものもBの指示により追加されたものも含めて、「荒涼たる歸宅」を除くその余の詩は全体として制作年代順となるように第一次案の中に配列され、「荒涼たる歸宅」のみが右制作年代順の原則に対する唯一の例外をなしているものであるところ、右「荒涼たる歸宅」はBの指示により追加された詩であること、その配列が必ずしも制作年代順ではない「うた六首」の配列は、Bがその追加を指示してAに交付した自筆原稿の順番どおりの配列であること、現在の「智惠子抄」における三編の散文のうち、二編は第一次案に既にあったものであるが、これら二編の散文は第一次案では制作年月が不明だったものを、Bは、追加された散文である「九十九里濱の初夏」のAからの追加の進言があった後に、"右追加の散文も含めて制作年月を確定したものであることが認められ、一方、証人Eの証言によれば、Bは詩集における作品の配列を制作年代順とするのを原則としていたが、このような配列は当時の詩集としては珍しいものであったことが認められ、これらの事実からすれば、制作年代順を原則とする配列そのものがBの編集方針であるほか、右制作年代順の原則に対する例外であるもののうち、「うた六首」の配列はBが確定したものであると認められることは勿論のこと、詩における例外である「荒涼たる歸宅」の配列はBが同詩の追加を指示したときにその配列も確定し、三編の散文の配列も散文の制作年月を確定したときに合わせてその配列を指示したものと推認したうえで、現在の「智惠子抄」における作品の配列は全てBの意向によって確定されたものとする原判決の認定は肯認し得るものであるということができる。