Kaneda Legal Service {top}
著作権判例セレクション
【言語著作物の侵害性】ドキュメンタリー作品vs.大河小説(ノンフィクション作品(歴史的事実)の翻案性)
▶平成13年03月26日東京地方裁判所[平成9(ワ)442]
(注) 原告は、昭和16年、旧満州国の「新京」(現在の中華人民共和国吉林省長春市)に生まれ、幼少時に中国革命戦争下の共産党軍(八路軍)の長春包囲戦に巻き込まれ、長春を脱出する際に国民党軍と八路軍の間に設けられた「?子(チャーズ)」において脱出を許されるまでの数日間凄惨な状況の中に置かれたという自らの体験をもとに、原告各著作物を著作した。
一方、被告は、月刊「文藝春秋」昭和62年5月号から平成3年4月号までに、「大地の子」と題する小説を連載して発表した。同作品は、被告により加筆された上、平成3年に株式会社文藝春秋から四六判の単行本として出版され、さらに平成6年文春文庫(一巻ないし四巻)から出版された。
一 翻案権侵害について
原告は、対照表一ないし四記載の点を指摘して、被告小説は、原告が原告各著作物について有する翻案権(対照表一については複製権及び翻案権)の範囲に含まれる旨主張する。すなわち、
① 対照表二記載のとおり、ストーリー展開ないし場面展開が同一又は類似であること
② 対照表三記載のとおり、起承転結という構成を採用している点で共通し、かつ、起承転結の具体的な内容が同一又は類似であること
③ 対照表四記載のとおり、ストーリー全体の流れ、エピソードの取捨選択、表現手法が同一又は類似であること(40か所)
④ 対照表一記載のとおり、個別的、具体的な記述部分の表現形式及び特徴が同一又は類似であること(57か所、なお、対照表一においては、複製権侵害も主張している。)
著作者は、著作物を翻訳し、編曲し、若しくは変形し、又は脚色し、映画化し、その他翻案する権利を専有する(著作権法27条)。右翻案とは、ある作品に接したときに、先行著作物における創作性を有する本質的な特徴部分が共通であることにより、先行著作物の創作性を有する本質的な特徴部分を直接感得させるような作品を制作(創作)する行為をいう。したがって、ある作品が先行著作物に関する翻案権の範囲内に含まれる否かは、①先行著作物における主題の設定、具体的な表現上の特徴、作品の性格、②当該作品における主題の設定、具体的な表現上の特徴、作品の性格、③両者間における、ストーリー展開、背景及び場面の設定、人物設定、描写方法の同一性ないし類似性の程度、類似性を有する部分の分量等を総合勘案して判断するのが相当である。
各対照表において、原告が指摘する部分の翻案権侵害の有無については、以下二ないし五において個別具体的に検討するが、総論的な点を簡潔に述べておく。
第一に、原告各著作物は、概要、昭和二三年(一九四八年)、国民党軍の支配下にあった長春は、中国共産党軍(八路軍)が包囲して兵糧攻めにしたため、市民の多くが飢餓状態に陥ったこと、原告は、当時七歳であったが、長春を脱出する際に国民党軍と八路軍の間に設けられた(チャーズ)において脱出を許されるまでの数日間凄惨な状況の中に置かれたこと、家族らは、かろうじて脱出を果たしたが、原告は、その後、栄養失調の上、結核菌に冒されたことなど戦争下での苛酷な体験を基礎に、歴史的な事実として(フィクションを交えないドキュメンタリーとして)、著作されたものである(詳細は後記認定のとおりである。なお、原告各著作物については、原告の父親に対する鎮魂、敬愛追慕の情などが執筆の動機の一つである等の特別の事情も存在する。)。このようなノンフィクションの性格を有する著作物において、歴史的な事実に関する記述部分について、文章、文体、用字用語等の上で工夫された創作的な表現形式をそのまま利用することはさておき、記述された歴史的な事実を、創作的な表現形式を変えた上、素材として利用することについてまで、著作者が独占できる(他者の利用を排除することができる。)と解するのは妥当とはいえない。
第二に、被告小説は、日中の歴史を背景に、戦争によって捨てられた子どもである戦争孤児(いわゆる中国残留孤児)を主人公として、孤児と中国養父母との心の交流を軸として、戦火の中でも失われなかった人類愛を描こうとした大河小説である。一般に、作家は、小説を執筆するに当たって、読者に対し、最も効果的に、テーマを伝え、感動を与えることができるよう、ドラマチックなストーリー展開を案出し、各種の登場人物を創出し、人物の性格、思想、行動、人間関係等を設定するなど、知識、経験及び創造力を尽くし、創作的な工夫を凝らして、作品を完成させるものであるといえる。このように創造力を駆使して執筆される小説の性格に照らすならば、例えば、歴史的事実、日常的な事実等を描くような場合に、他者の先行著作物で記述された事実と内容において共通する事実を取り上げたとしても、その事実を、いわば基礎的な素材として、換骨奪胎して利用することは、ある程度広く許容されるものと解するのが妥当である。
そこで、このような観点を踏まえた上で、両者間における、ストーリー展開、背景及び場面の設定、人物設定、描写方法等の類似性の有無、程度を総合勘案して判断することにする。
なお、以下に、翻案権侵害等の有無について判断するが、両作品の全体的な検討から進める方が、より分かりやすいので、対照表二、三、四及び一の順で行う。
二 対照表二関係(翻案権侵害の有無)について
1 原告は、被告小説(単行本)における、主人公陸一心らが長春を脱出して(チャーズ)に向かう場面から
(チャーズ)を脱出するまでの部分が、「(チャーズ) 出口なき大地」における同様の部分と、対照表二記載のとおりストーリー展開ないし場面展開が同じであるから、被告小説の該当部分は、「(チャーズ) 出口なき大地」の該当部分を翻案したものであると主張する。
そこで、両者の該当部分について対比する。
2 両者のあらすじ
(一) 証拠によれば、「(チャーズ) 出口なき大地」102頁ないし183頁の第三章「絶望都市・長春」のあらすじは、以下のとおりと認めることができる。
(略)
(二) 証拠によれば、被告小説(単行本)上巻96頁ないし120頁、三章「この子売ります」及び四章「?々」のあらすじは、以下のとおりと認められる。
(略)
3 両者の比較
(一) ストーリー展開の異同
両者は、八路軍(共産党軍)による長春包囲下での長春の惨状の下、食糧が欠乏する中で、原告ないし主人公ら一家がなんとか命をつないでいくが、数々の局面を経た後ようやく長春脱出を決意し、その脱出行の過程で(チャーズ)に入り、(チャーズ)内の惨状に直面し過酷な体験をするが、ようやく(チャーズ)から脱出するという大まかな筋において、共通又は類似する。
他方、両者は、ストーリー展開において、次のような点において、大きく相違する。
すなわち、「(チャーズ) 出口なき大地」では、長春包囲網下での惨状に直面した原告らが、絶望都市である長春から脱出し、父親を中心として家族で助け合いながら苦難を乗り越えて、希望あふれる解放区へ向かうこと、それにもかかわらず、一行全員が(チャーズ)から出ることができず、技術者Mの遺族は脱出できなかったという悲劇的な結末を迎えたことなどが記述され、この事実が原告の父親を臨終の際まで苦しめたという、原告の父親及び原告の気持ちが表されている。これに対し、被告小説では、長春脱出を望む主人公の養親夫婦に対し、主人公である陸一心は、実妹であるあつ子と再会して共に日本に帰ることに望みをつなぎ、一人長春に留まろうとすること、陸夫婦に対して、依然として親であるとの思いを抱けないまま同行するが、(チャーズ)の中での苦難を共にし、(チャーズ)からの出門の際、自分の身と引き替えに陸一心を(チャーズ)の外へ出そうとする陸徳志の行為に、心を衝かれ、はじめて陸徳志のことを「?々」と呼ぶというストーリーが記述されている。両者は、原告ないし主人公の置かれた立場や気持ち、これを巡る人間関係、これらに対応する具体的なストーリー展開などにおいて、大きく相違する。
(二) その他、背景及び場面設定、人物設定、描写方法等の相違点
「(チャーズ) 出口なき大地」と被告小説とは、次のような点で相違する。すなわち、
① 前者においては、原告らが長春に留まったのは、原告の父親が国民党政府から留用されていたためと八路軍の隊長が再度入城するとした約束を信じていたためであるが、被告小説にはそのような理由は示されていない。
② 前者と後者では、食糧難の長春で食糧を得るための具体的方法が異なる。
③ 前者においては、原告が結核菌に冒されるが、後者においては、主人公に対し、そのような状況設定がされていない。
④ 前者においては、一緒に暮らす家族の中に、私腹を肥やすなどずる賢く立ち回る身内がいるが、後者においては、そのような人物設定がされていない。
⑤ 前者においては、原告の父が長春脱出を決意すると、原告ら全員は長春からの脱出を望むが、後者においては、養父が長春脱出を決断した後も、陸一心が一人長春に留まることを望むという状況設定がされている。
⑥ 前者においては、弟のFの出生とその死亡、兄の死亡などの事実があるが、後者においては、主人公の兄弟の死という場面を設けてない。
⑦ 前者においては、飢餓状態の下、犬が赤ん坊の死体を食べたり、原告らも犬を食べたりするような場面が記述されているが、後者においては、そのような場面設定はない。
⑧ 前者においては、長春から脱出するに当たって、父親が長春市長に会って長春からの脱出を告げ、多額の餞別と食糧をもらったということが記述されているが、後者では、脱出に備えて母が隠れて食糧を蓄えていたという異なる設定がされている。
⑨ 前者においては、原告らが、(チャーズ)に到着した際、柵の入り口の両脇に立ち並ぶ露店で、買い物をしようとしたところ、Fのお産に立ち会った産婆に出会い、財布を奪われたことが描写されているが、後者においては、それに類した場面設定は存在しない。
⑩ 前者においては、(チャーズ)の中で、匪賊が弱った男を殺して、食べるという凄惨な情景は描写されていない(伺わせる描写はされている)が、後者においては、人を殺して鍋で煮て食べる光景を描写している。
⑪ 前者においては、原告は、八路軍に信頼を寄せていたこと、それにもかかわらず、門を閉ざして自分たちを苛酷な目にあわせるのかという疑問を父親に投げかける記述がされているが、後者においては、主人公は、八路軍に対する特別の気持ちはなく、単に、人民解放軍との旗印を掲げている八路軍がなぜ、
子の門を閉ざしたままで、人民を解放しないのかとの疑問を抱くだけの記述がされている。
⑫ 前者においては、原告の父親が死体の山に祈りを捧げ、弔ったこと、原告が見た幻覚がその後も原告を苦しめたこと、死体の山を見たという体験が、後の原告の人生にとって影響を与えたことが記述されているが、後者において、死体の山に対して、特別の意味付けがされていない。
⑬ 前者においては、(チャーズ)から出門する際、父親の懇願にもかかわらず、M氏の遺族が出門を許されなかったこと、これが後に原告の父親を臨終の際まで苦しめたことが表現されているが、後者においては、主人公の家族全員が
子から脱出でき、その脱出の際に、自分の身と引き替えに一心を 子から出そうとする養父の献身的な愛とこれを受けて主人公がはじめて養父を父親(?々)と呼ぶことが記述されている。
⑭ 前者においては、原告らが、難民から食料を略奪されたことは記述されていないが、後者においては、主人公一家が
子の中で食糧を略奪されたことが記述されている。
⑮ 前者においては、 子の開門に関する流言は記述されていないが、後者においては、主人公らが、
子の門が開くというデマに振り回されて体力を消耗し自滅する人の群を見かけたという場面が設けられている。
(三) 小括
以上のとおり、「(チャーズ) 出口なき大地」と被告小説とは、原告及び主人公が、脱出行の過程で(チャーズ)に入り、(チャーズ)内の惨状に直面し過酷な体験をするが、ようやく(チャーズ)から脱出するという大まかな筋において、共通又は類似するが、当時長春に残った者が長春包囲の下での惨状に直面し、脱出行の過程で(チャーズ)に入り、過酷な体験をするということは、体験者に共通したいわば一つの歴史的事実ともいうべきもので、その歴史的事実に沿った範囲内で基本的あらすじが類似しているからといって、そのことだけで、「(チャーズ) 出口なき大地」の創作性を有する本質的特徴部分を感得するほどに共通していると解することはできない。かえって、「(チャーズ) 出口なき大地」と被告小説とは、前記(一)及び(二)に記載したとおりの、ストーリー展開、背景及び場面の設定、人物設定、描写方法等の相違点があることを総合勘案すると、被告小説中の該当部分は、「(チャーズ) 出口なき大地」中の該当部分を翻案したものということはできない。
これに対して、原告は、対照表二記載のとおり、両者のストーリー展開に関して類似、共通する要素があることを指摘する。しかし、右対照表は、①個々のエピソードの順序が異なるにもかかわらず同一順序であると指摘している点、②順序を入れ替えた上で、同一順序であると指摘している点、③途中を省略した上で共通であると指摘している点などもみられること、前記のとおり、ストーリー展開に関しては相違する要素が存在すること、後記五のとおり、個別表現において類似性に乏しいことなどに照らすならば、右対照表二の指摘をもってしても、なお、前記の認定を左右することはできない。
4 以上によれば、依拠性の点を検討するまでもなく、対照表二に関する翻案権侵害は成立しない。
三 対照表三関係(翻案権侵害の成否)について
1 原告は、「(チャーズ) 出口なき大地」の六二頁三行ないし六三頁一七行(以上、第一章「赤いガラス玉」)、一六〇頁一行ないし終わりから二行、一六二頁七行ないし一一行(以上、第三章「絶望都市・長春」)において、原告が(チャーズ)における出来事を描写するに際し、「なぜ、その八路軍が」という苦しい葛藤をし、その疑問を父親に投げかけたという記述を、起承転結という構成を採用して表現したところ、被告小説(単行本)(上巻九四頁七行ないし九五頁一三行、一〇九頁終わりから二行ないし最終行、一一二頁終わりから三行ないし一一三頁八行)においても同一又は類似の構成が用いられて表現されている点において、被告小説の該当部分は、「(チャーズ) 出口なき大地」の該当部分を翻案したものであると主張する。
そこで、両者の該当部分について対比する。
2 両者の記述
(一) 証拠によれば、「(チャーズ) 出口なき大地」における原告記述部分の概要は、以下のとおりと認められる。
(略)
(二) 証拠によれば、被告小説(単行本)における被告記述部分の概要は、以下のとおりと認められる。
(略)
3 両者の比較
(一) 右認定したように、原告記述部分と被告記述部分では、八路軍を意識するようになった契機、原告ないし主人公が八路軍に対して有した信頼ないし親密さの程度、その否定的評価、(チャーズ)を脱出する状況などにおいて、大きく相違する。
すなわち、原告著作物においては、原告は、八路軍の兵士との交流を通じて八路軍に対して信頼を寄せていたこと、(チャーズ)の経験を通して、(チャーズ)の柵門を固く閉ざし、(チャーズ)の中の惨状を引き起こしているのは八路軍であるという現実を認識して、原告の八路軍に対する信頼が大きく変わったこと、八路軍と自分を切り離そうとすること、さらに、対照表で指摘された部分の後に、八路軍が、(チャーズ)の脱出の場面で技術者の遺族を残して、外に出さないという仕打ちをすること等が記述されている。これに対し、被告記述部分においては、主人公は、八路軍の兵士が「毛主席万歳!」と言いながら処刑された様子を見たこと、八路軍に対して格別の信頼感を持つことがなかったこと、主人公は(チャーズ)の中で、八路軍がどうして助けてくれないのかという単純な疑問を抱くだけであって、八路軍に対して、信頼を裏切られたというような格別の感情を持っていないこと、対照表で指摘された部分の後に、主人公らが
子を脱出する場面では、原告各著作物とは逆に八路軍の人道的な判断により助けられること等が記述されている。
このように、原告記述部分と被告記述部分とは、起承転結を構成する具体的な要素同士を比較検討してみても、全体として類似していないというべきである。したがって、被告記述部分から原告記述部分の創作性を有する本質的な特徴部分を直接感得することができないと解され、原告記述部分を翻案したものといえない。
(二) これに対して、原告は、対照表三記載のとおり、原告記述部分と被告記述部分は、起承転結を構成する抽象的な視点、すなわち、偉大な革命のために人民が血を流すエピソードに言及して話を起こす(起)、そこから、「偉大な毛沢東」を引き出す(承)、その後、偉大なはずの毛沢東に対し、「毛沢東、知ってるか?」という会話体による疑問を反転として、その人物に対し必ずしも肯定的なイメージを抱かない状況へと展開させる(転)、最後にそれを受ける形で、(チャーズ)の中で、八路軍が「どうして、あの門を開けてくれないの?」と父親に質問することによって疑問を投げかけるという形で結ぶ(結)、という視点が共通すると指摘する。しかし、長春市内から脱出しようとしている人々が、(チャーズ)に入った後、八路軍が門をなかなか開けようとせず、(チャーズ)内で多数の死者が出ていることについて八路軍側に対する不満あるいは疑問が生じるのも自然の成り行きであることに照らすならば、そのような視点で文章構成がされたことに創作性があるとまではいえず、この点についての原告の主張は採用できない。
4 以上によれば、依拠性の点を検討するまでもなく、対照表三に関する翻案権侵害は成立しない。
四 対照表四関係(翻案権侵害の成否)について
1 原告は、被告記述部分のストーリーの全体の流れ、エピソードの取捨選択、表現手法(ただし、日中合弁事業や政権抗争を除いた部分)が40か所において、「不条理のかなた」、「 (チャーズ) 出口なき大地」及び「続(チャーズ) 失われた時を求めて」(「(チャーズ)」上巻及び下巻)と同一又は類似であるとして、被告小説の該当部分は、原告各著作物の該当部分を翻案したものであると主張する。
なお、対照表四における原告各記述部分は、一連の文章ではなく、原告各著作物から、別個独立した文章を抜粋した上、つなげたものである。そこで、原告指摘のストーリー全体の流れなどの同一性、類似性を検討するに際しては、「不条理のかなた」、「(チャーズ) 出口なき大地」、「続(チャーズ) 失われた時を求めて」(あるいは「(チャーズ)」上巻及び下巻)それぞれのストーリー全体の流れ等と被告小説のストーリー全体の流れとを対比して検討することとする。
2 ストーリー全体の流れ等
(一) 「不条理のかなた」のストーリー全体の流れ等
(略)
(二) 「(チャーズ) 出口なき大地」(「(チャーズ)上巻」を含む。以下同じ。)のストーリー全体の流れ等
(略)
(三) 「続(チャーズ) 失われた時を求めて」(「(チャーズ)下巻」を含む。以下同じ。)のストーリー全体の流れ等
(略)
(四) 被告小説のストーリー全体の流れ
(略)
3 両者の比較
(一) 右認定したように、原告各著作物と被告小説は、全体として同一又は類似しているとはいえない。
すなわち、原告各著作物は、日中戦争終了後も、中国に留まらざるを得なかった日本人である原告及びその家族らが、(チャーズ)という過酷な体験をしたことを描くとともに、その後どのような思いで(チャーズ)と向かい合い、どのような人生をたどっていったかを赤裸々に綴ったドキュメンタリーである。
他方、被告小説は、中国残留孤児である主人公が、中国人の養父母の慈愛の下に中国人として育てられるが、文化大革命の煽りを受け、新生中国の中で日本人という出自のために様々な困難に遭い、他方で、実妹及び日本人である実父と再会し、その実父の愛と養父の愛との間に揺れ動きながらも、最後は中国の人として中国に残ることを描いた大河小説である。
両者は、ストーリー全体の流れ、エピソードの選択、表現方法、背景及び場面設定、登場人物の設定等において、多くの相違点が存在し、全体として類似しているとはいえないというべきである。したがって、被告小説から原告各著作物の創作性を有する本質的な特徴部分を感得することはできないと解され、原告各著作物を翻案したものといえない(なお、被告小説における中国の政権交代や日中合弁事業の該当部分を、対比から除外したとしても、それ以外の部分のストーリー全体の流れ等が大きく相違するので、類似しているということはできない。)。
(二) これに対して、原告は、対照表四記載のとおり、「不条理のかなた」、「(チャーズ) 出口なき大地」、「続(チャーズ) 失われた時を求めて」から40の要素を抜き出して、それらと被告小説における対応する要素との間の共通性がある旨主張する。
しかし、原告が指摘する事項は、①全体の主たる流れとは必ずしも関係しない要素を指摘するにすぎないもの、②原告が同一又は類似すると指摘する要素は、具体的場面、状況、表現全体に照らして、類似していないと判断されるもの、③単に類似した用字、用語が選択されているにすぎないもの、④歴史的事実が取り上げられているため、似通った記述になったものがあることに照らすならば、原告の指摘は、両者は全体としての基本的なストーリー等において多く相違しているとの前記の認定に消長を来たすものとはいえない。なお、原告の指摘する要素6項、11項ないし15項、17項(対照表一に対応)、15項(対照表三にも対応)については、既に一及び三で判断したとおりである。この点の原告の主張は採用できない。
4 以上によれば、依拠性の点を検討するまでもなく、対照表四に関する翻案権侵害は成立しない。
五 対照表一関係(複製権、翻案権侵害の有無)について
1 原告は、対照表一記載のとおり、合計57か所を指摘して、(一)被告小説(被告記述部分)は、①原告各著作物中の具体的表現が、そのまま、あるいは、言い換えられながら、多数利用され、②原告各著作物中の具体的な情景や登場人物の具体的動作などの描写が、同一の着眼点、同一の視点から、同一の順序で、記述されているので、原告各著作物(原告記述部分)を複製した、(二)被告小説は、原告各著作物において、個性的に表現された具体的な情景や登場人物の具体的動作などの描写が、内容を変えることなく記述されているので、原告各著作物(原告記述部分)を翻案した旨主張する。
そこで、以下、各項毎に、個別に検討する。
2 まず、原告各著作物の創作性について述べる。
原告各著作物は、原告の体験した事実や歴史的事実を基礎に記述された読み物である。自ら体験した事実や歴史的事実に関する記述部分であっても、どのような事実を取捨選択するか、また、どのように表現するかについては、様々な方法があり得るから、表現上の創意工夫の発揮される表現が用いられている限り、原則として、創作性が認められることはいうまでもない。
ところで、対照表一における原告記述部分(上段)については、一部分の複製権侵害ないし翻案権侵害を主張するため、①原告各著作物の中で、極く短い文章部分のみを抜粋して掲記している例や、②対比の便宜上、別個独立した複数の文章を結合させた例がみられる。このような例において、極く短い文章や、表現形式に制約があって、およそ他の表現が想定できない文章や、平凡かつありふれた表現からなる文章である場合には、筆者の個性が現れているとはいえないものとして、例外的に創作性を否定すべきと解される。
なお、例外的に、創作性を否定すべき部分については、個別的に判断した(創作性がある部分は、格別の判断を示していない場合がある。)。
3 原告各著作物と被告小説の各項目毎の対比
(一) 1項について
原告記述部分1項は、「(チャーズ) 出口なき大地」からの抜粋であるが、一連の文章ではなく、被告記述部分と対比する便宜上、別個独立した三つの文章をつなげたものである。
一番目の部分(以下「一番目」という場合がある。他も同様である。)は、事実を説明した記述ではあるが、筆者の個性が発揮された表現として、創作性を認めることができる。二番目は、極く短い文章であり、筆者の個性が発揮された表現とはいえないので、創作性はない。三番目は、創作性を認めることができる。
そこで、原告記述部分1項一番目及び三番目と被告記述部分1項について対比する。
原告記述部分1項一番目は、城内についての簡単な説明がされ、三番目は、城内の様子について、道幅の狭い道路には、馬車がのろのろとしか走れないほど人が溢れ出て、その両側には派手な彩りの招牌(看板用の垂幕)が垂れ下がっているにぎやかな商店街が続き、油と肉とニンニクをごったまぜにして小麦粉で固めたようなにおいと、かびついた古本のようなにおいがたちこめていたことなどが記述されている。
これに対し、被告記述部分1項は、城内について、両側に商店と屋台が並び、油やニンニクの匂いがたっていて、吐き気を催すほどであること、多くの人がひしめくように歩いたり、道端でしゃがんで話したりしているため、狭い道が混雑していること、大福(陸一心)が陸徳志を見失いそうになりながらも慌てて腕に縋ったこと、陸徳志との会話などが記述されている。両者は、城内についての説明、城内の雑踏などの記述内容において似通った点もあるが、表現形式、語彙の選択等において、共通する点はない。
右の表現形式上の相違に照らすならば、被告記述部分1項は、原告記述部分1項一番目及び三番目と実質的に同一とはいえない。
また、城内に関する説明内容及び具体的描写が大きく異なるので、被告記述部分1項は、原告記述部分1項一番目及び三番目の創作性を有する本質的な特徴部分を直接感得することもできない。
したがって、複製権又は翻案権侵害はない。
(以下、「2項」から「56項」まで略)
(五七) 57項について
原告記述部分57項は、「(チャーズ) 出口なき大地」からの抜粋であるが、一連の文章ではなく、被告記述部分と対比する便宜上、別個の二つの文章をつなげたものである。
一番目は、 子からの出門状況について、詳細に描写した表現であり、筆者の個性の発揮された表現として、創作性を認めることができる。二番目は、極めて短い文章であり、創作性はない。
そこで、原告記述部分57項一番目と、被告記述部分57項について対比する。
原告記述部分57項一番目では、(チャーズ)からの出門の際、原告らの同行者である技術者Mの遺族らが出門を許されず、原告の父親の必死の懇願にもかかわらず許可されなかったこと、原告の父親はその遺族らを置き去りにして
子を脱出せねばならなかったことが克明詳細に表現されている。これに対し、被告記述部分57項は、出門を阻止されようとした主人公を自らの身と引き換えに出門させようとした養父の献身的な行為が描かれている(被告小説では、これに続いて、主人公が最終的には出門を許可され、はじめて養父のことを「?々」と呼ぶことになる状況が記述されている。)。両者は、 子の出口における検問の際、一行のうち一部の者が出門を阻止される状況が描かれている点において共通するが、その表現形式及び語彙の選択等において、大きく異なる。
右の表現形式上の相違に照らすならば、被告記述部分57項は原告記述部分57項一番目と実質的に同一とはいえない。
また、表現されている具体的状況及び場面設定が大きく異なるので、被告記述部分57項から原告記述部分57項一番目の創作性を有する本質的な特徴部分を直接感得することもできない。
したがって、複製権又は翻案権侵害はない。
3 まとめ
以上によれば、被告記述部分1項ないし57項は、依拠性の点を判断するまでもなく、原告記述部分1項ないし57項に係る原告の複製権及び翻案権を侵害しない。
六 氏名表示権侵害の有無について
前記一ないし五のとおり、被告が、被告小説(被告記述部分)において、原告各著作物(原告記述部分)を複製し、翻案したとはいえない以上、これを前提とする氏名表示権侵害の主張は理由がない。