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著作権判例セレクション
【言語著作物】法則文の著作物性及び侵害性を認めなかった事例
▶平成17年12月26日東京地方裁判所[平成17(ワ)10125]
(注) 本件は,原告が,被告に対し,Bらを著者とし,原告を発行所とする「天台宗開眼法要集」と題する書籍(「原告書籍」)についての出版権を原告が有するものであるところ,被告及びCが監修し,S社が発行する「天台宗祈願作法手文」と題する書籍(全4巻。以下「被告書籍」)の発行が,原告書籍についての原告の出版権を侵害するものであると主張して,民法709条に基づき,出版権の侵害による損害の賠償を求めた事案である。
なお、法則文とは,仏教において,法要に際し,その趣旨を述べる文言であるが、原告書籍には,別紙記載の法則文(「本件法則文」)があり,被告書籍の第4巻「開眼・加持・撥遣作法」には,同記載の法則文(「被告法則文」)がある。
第3 争点に対する判断
1 争点(1)ア,イ(本件法則文の著作物性,本件法則文と被告法則文の同一性)について
(1)出版権者は,設定行為で定めるところにより,頒布の目的をもって,その出版権の目的である著作物を,原作のまま印刷その他の機械的又は化学的方法により文書又は図画として複製する権利を専有する(著作権法80条1項)。
したがって,被告が,原告の有する出版権を侵害したというためには,被告が,頒布の目的をもって,その出版権の目的である著作物を,原作のまま印刷その他の機械的又は化学的方法により文書又は図画として複製したことが必要である。
また,著作物の複製(著作権法21条,2条1項15号)とは,既存の著作物に依拠し,その内容及び形式を覚知させるに足りるものを再製することをいう(最高裁昭和53年9月7日第一小法廷判決参照)。
そして,著作権法は,思想又は感情の創作的な表現を保護するものであるから(著作権法2条1項1号),既存の著作物に依拠して創作された著作物が,思想,感情若しくはアイディア,事実若しくは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において,既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には,複製に当たらないと解するのが相当である(最高裁平成13年6月28日第一小法廷判決参照)。ここで,表現上の創作性とは,独創性を有することまでは要せず,筆者の何らかの個性が発揮されていることで足りると解すべきであるが,創作物が言語によるものである場合,ごく短い表現や,平凡かつありふれた表現などにおいては,筆者の個性が発揮されているということは困難であり,創作的な表現であるとはいえないと解すべきである。
そこで,以下,原告が本件法則文と被告法則文との同一性を主張する箇所ごとに検討する。
(2)位牌開眼法則
ア 原告表現2
原告表現2は,位牌開眼法則の「・・・盡法界一切の三寳に白して言さく・・・」の「盡法界」の部分である。
証拠によれば,天台宗南総教区教学法儀布教研修所発行の乙1書籍の「位牌開眼法則」の項の原告表現2に相当する箇所には,「・・・尽空法界一切の三宝に・・・」との表現があること,天台宗栃木教区日光部法儀研究会発行の乙2書籍の原告表現2に相当する箇所には,「・・・尽空法界の一切の三宝に・・・」との表現があること,比叡山聖尊院所蔵の「安樂集」(以下「乙14書籍」という。)の原告表現2に相当する箇所には,「・・・盡法界一切ノ三寳ニ・・・」との表現があることが認められる。乙14書籍が古くからある書籍であることについて,原告も古式の資料であることは認めており,その体裁等から,原告書籍の発行以前に発行されていたものと推認される(以下,乙14書籍を証拠として用いる場合は同様)。
上記認定の事実によれば,原告表現2は,ごく短いものであり,また,原告書籍発行以前に発行されていた書籍(乙1書籍,乙2書籍及び乙14書籍)に類似した,あるいは,これらの書籍において同一の表現が用いられているなど,平凡でありふれた表現であるということができるから,筆者の個性が表現されたものとはいえない。
したがって,原告表現2は,創作的な表現であるということはできない。
イ 原告表現4
原告表現4は,位牌開眼法則の「・・・今此の道場/斉場/家屋に於いて新たに○○靈位の靈牌を建立し・・・」(「道場」「斉場」及び「家屋」は,3列に並べて記載されている。)の「道場/斉場/家屋」の部分である。
証拠によれば,乙1書籍の「位牌開眼法則」の項の原告表現4に相当する箇所には,「・・・今此の道場に於て・・・」との表現があること,乙2書籍の原告表現4に相当する箇所には,「・・・○○家の浄室に於いて・・・」との表現があること,乙14書籍の原告表現4に相当する箇所には,「・・・今此ノ靈塲ニ於テ・・・」との表現があることが認められる。
上記認定の事実及び証拠によれば,原告表現4の「道場/斉場/家屋」は,法要を行う場所を特定する文言を述べる部分であることが認められる。そして,「斉場」及び「家屋」は,いずれも法要を行う場所として一般的であるから,「道場」に,法要を行う場所を特定する選択的な用語として「斉場」及び「家屋」を追加した原告表現4は,平凡でありふれた表現であり,筆者の個性が表現されたものとはいえないから,創作的な表現であるということはできない。
ウ 原告表現5
原告表現5は,位牌開眼法則の「・・・今此の道場/斉場/家屋に於いて新たに○○靈位の靈牌を建立し・・・」(「道場」「斉場」及び「家屋」は,3列に並べて記載されている。)の「靈位の」の部分である。
証拠によれば,乙1書籍の「位牌開眼法則」の項の原告表現5に相当する箇所には,「・・・新に(戒名)霊牌を造立し・・・」との表現があること,乙2書籍の原告表現5に相当する箇所には,「・・・新たに○○居士(大姉)霊牌を建立し・・・」との表現があること,乙14書籍の原告表現5に相当する箇所には,「・・・新ニ某居士/大姉靈牌ヲ建立シ・・・」(「居士」及び「大姉」は,2列に並べて記載されている。)との表現があることが認められる。また,証拠によれば,国書刊行会発行の書籍「諷誦・歎徳・表白・引導大宝典」(昭和59年1月発行。乙15)には,戒名の下に置く文言として,「居士」及び「霊位」が掲げられていることが認められる。
上記認定の事実によれば,原告表現5の直前の「○○」には戒名が入れられるものであるところ,「靈位」という表現は,戒名の下に置く用語としてありふれたものであり,また,それを前提にすれば,戒名の下に「靈位」という文言を付加する表現もありふれたものである。そうすると,原告表現5は,筆者の個性が表現されたものとはいえないから,創作的な表現であるということはできない。
エ 原告表現7
原告表現7は,位牌開眼法則の「・・・心月輪(編注;「心月輪」の上に「しんがちりん」というルビあり)のとは淨菩提心(編注;「淨菩提心」の上に「じょうぼだいしん」というルビあり)の體(編注;「體」の上に「すがた」というルビあり)本初不生(編注;「本初不生」の上に「ほんしょふしょう」というルビあり)の理(編注;「理」の上に「ことわり」というルビあり)なり・・・」の部分である。
証拠によれば,乙1書籍の「位牌開眼法則」の項の原告表現7に相当する箇所には,「・・・心月輪は浄菩提心の体 本初不二の理なり・・・」との表現があること,乙2書籍の原告表現7に相当する箇所には,「・・・心月輪(編注;「心月輪」の上に「しんがちりん」というルビあり)とは浄菩提心(編注;「淨菩提心」の上に「じょうぼだいしん」というルビあり)の躰(編注;「躰」の上に「たい」というルビあり)にして,本初不生(編注;「本初不生」の上に「ほんしょふしょう」というルビあり)の理也(編注;「理也」の上に「りなり」というルビあり)・・・」との表現があることが認められる。
上記認定の事実によれば,「・・・心月輪とは淨菩提心の體 本初不生の理なり・・・」との原告表現7は,平凡でありふれた表現であり,筆者の個性が表現されたものとはいえない。
また,原告は,地区ごとに読み方に違いが生じているものを統一するため,また,漢字の読み違いにより法則文の意味を不明にすること及び読経に違和感を抱かせることを防止するため,ルビを付したというのであるから,ルビを付す場合に,当該箇所のルビについて他の表現を選択する余地はほとんどないし,原告表現7についてルビを付すことが,筆者の個性を表現するものということもできない。
したがって,原告表現7は,創作的な表現であるということはできない。
オ 原告表現9
原告表現9は,位牌開眼法則の「南無摩訶毘廬遮那如來/南無金剛手菩薩/乃至法界平等利益の爲に/南無摩訶毘廬遮那如來/決定法成就の爲に/南無摩訶毘廬遮那如來/南無金剛手菩薩/南無佛眼部母菩薩/南無一字金輪佛頂/南無一切三寳」(/は改行。)の部分である。
証拠によれば,乙14書籍の原告表現9に相当する箇所には,「南無摩訶毘廬遮那如來/南無金剛手菩薩/乃至法界平等利益ノ爲メニ/南無摩訶毘廬左那如來/決定法成就ノ爲メニ/南無摩訶毘廬舎那如來/南無金剛手菩薩/南無佛眼部母菩薩/南無一字金輪佛頂/南無一切三寳」(/は改行)との表現があることが認められる。
上記認定の事実によれば,原告表現9は,原告書籍における創作部分ではなく,筆者の個性が表現されたものとはいえないから,創作的な表現であるということはできない。
(3)石塔開眼法則
ア 原告表現13
原告表現13は,石塔開眼法則の「・・・諸宿曜等(編注;「諸宿曜等」の上に「しよしゆようとう」というルビあり)・・・」,「・・・當處擁護(編注;「當處擁護」の上に「とうしよおうご」というルビあり)・・・」及び「・・・本命曜宿(編注;「本命曜宿」の上に「ほんめいようしゆく」というルビあり)・・・」のルビの部分であるところ,上記(2)エの場合と同様に,当該箇所のルビについて他の表現を選択する余地はほとんどないし,これらの語句についてルビを付すことが,筆者の個性を表現するものであるということもできない。したがって,原告表現13は,創作的な表現であるということはできない。
イ 原告表現16
原告表現16は,石塔開眼法則の「・・・今此の靈域に於いて・・・」の「靈域」の部分である。
証拠によれば,原告表現16の「靈域」は,法要を行う場所を特定する文言を述べる部分であることが認められる。そして,「道場」が,霊廟その他死者をまつるための一戸建ての家を意味する用語であることに争いはなく,弁論の全趣旨によれば,「靈域」は,寺院,墓地その他の神聖な場所を広く含む一般的な用語であると認められるから,法要を行う場所を特定する用語として,「道場」を「靈域」に置き換えた原告表現16は,平凡でありふれた表現であり,筆者の個性が表現されたものとはいえないから,創作的な表現であるということはできない。
ウ 原告表現19
原告表現19は,石塔開眼法則の「・・・輪圓具足(編注;「輪圓具足」の上に「りんねんぐそく」というルビあり)の秘藏(編注;「秘藏」の上に「ひぞう」というルビあり)・・・」のルビの部分であるところ,上記(2)エの場合と同様に,当該箇所のルビについて他の表現を選択する余地はほとんどないし,これらの語句にルビを付すことが筆者の個性を表現するものであるということもできない。したがって,原告表現19は,創作的な表現であるということはできない。
(4)塔婆開眼法則
ア 原告表現24
原告表現24は,塔婆開眼法則の「・・・此の靈域に於て・・・」の「靈域」の部分である。
証拠によれば,原告表現24の「靈域」は,法要を行う場所を特定する文言を述べる部分であることが認められる。そして,「道場」が,霊廟その他死者をまつるための一戸建ての家を意味する用語であることに争いはなく,上記(3)イ認定のとおり,「靈域」は,寺院,墓地その他の神聖な場所を広く含む一般的な用語であると認められるから,法要を行う場所を特定する用語として,「道場」を「靈域」に置き換えた原告表現24は,平凡でありふれた表現であり,筆者の個性が表現されたものとはいえないから,創作的な表現であるということはできない。
イ 原告表現27
原告表現27は,塔婆開眼法則の「・・・○○靈位○○回忌の忌辰を迎えて・・・」の「靈位」の部分である。
証拠によれば,天台宗東京教区宗務所発行の乙4書籍の原告表現27に相当する箇所には,「・・・(戒名)○回忌の忌辰を迎えて・・・」との表現があることが認められる。
上記認定の事実によれば,原告表現27の直前の「○○」には戒名が入れられるものであると認められるところ,上記(2)ウ認定の事実によれば,「靈位」という表現は,戒名の下に置く用語としてありふれたものであり,また,それを前提にすれば,戒名の下に「靈位」という文言を付加する表現もありふれたものである。そうすると,原告表現27は,筆者の個性が表現されたものとはいえないから,創作的な表現であるということはできない。
(5)古佛撥遣法
ア 原告表現29
原告表現29は,古佛撥遣法の「謹しみ敬って○○尊像に・・・」の「謹しみ」の部分である。
証拠によれば,仏書林金声堂発行の乙3書籍の「古佛撥遣法」の項の原告表現29に相当する箇所には,「敬テ此尊像ニ・・・」との表現があること,武覚圓作成の手文「古佛撥遣法」(発行年不明。乙16。以下「乙16手文」という。)の原告表現29に相当する箇所には,「謹しみ敬って『・・・』尊像に・・・」(『・・・』内は空白)との表現があることが認められる。
上記認定の事実によれば,「敬って」の前に「謹しみ」を付加した原告表現29は,平凡でありふれた表現であり,筆者の個性が表現されたものとはいえないから,創作的な表現であるということはできない。
イ 原告表現30
原告表現30は,古佛撥遣法の「謹しみ敬って○○尊像に・・・」の「○○尊像」の部分である。
証拠によれば,乙3書籍の「古佛撥遣法」の項の原告表現30に相当する箇所には,「敬テ此尊像ニ・・・」との表現があること,乙16手文の原告表現30に相当する箇所には,「謹しみ敬って『・・・』尊像に・・・」(『・・・』内は空白)との表現があることが認められる。
上記認定の事実によれば,「此尊像」に代えて「○○尊像」という用語を用いた原告表現30は,原告書籍の創作部分ではなく,また,平凡でありふれた表現であり,筆者の個性が表現されたものとはいえないから,創作的な表現であるということはできない。
ウ 原告表現31
原告表現31は,古佛撥遣法の「・・・以來(編注;「以來」の上に「このかた」というルビあり)・・・」,「・・・三身萬徳(編注;「三身萬徳」の上に「さんじんまんどく」というルビあり)・・・」,「・・・妙用(編注;「妙用」の上に「みようゆう」というルビあり)・・・」,「・・・利益衆生(編注;「利益衆生」の上に「りやくしゆじよう」というルビあり)・・・」及び「・・・巨益(編注;「巨益」の上に「こやく」というルビあり)・・・」のルビの部分であるところ,上記(2)エの場合と同様に,当該箇所のルビについて他の表現を選択する余地はほとんどないし,これらの語句についてルビを付すことが,筆者の個性を表現するものであるということもできない。したがって,原告表現31は,創作的な表現であるということはできない。
エ 原告表現32
原告表現32は,古佛撥遣法の「然るに今(頗る破損/金色剥落し給うに及ぶ・・・」(「頗る破損」及び「金色剥落」は,2列に並べて記載されている。)の「金色剥落」の部分である。
証拠によれば,古佛撥遣法の上記「然るに今(頗る破損/金色剥落し給うに及ぶ・・・」の部分は,古仏像を修復することとなった理由を述べる部分であると認められる。そして,「古佛撥遣法」が,古仏像の腕が取れるなどして,その一部が破損したり,金箔が剥がれ落ちたりして,古仏像の修復が必要となり,修復のための間,当該神仏に退避してもらう際に唱えるものであること,古仏像は金箔で覆われたものが多いことは,当事者間に争いがない。
これらの事実によれば,古仏像の修復の一例として,古仏像の金箔が剥がれ落ちた場合を想定し,古佛撥遣法において,古仏像を修復することとなった理由として,金箔が剥がれ落ちた旨を述べることは,平凡でありふれたものということができ,また,「金色堂」の語からも,「金色」は,金箔の貼られた状態を意味する表現として平凡でありふれたものということができる。そして,「剥落」は剥がれ落ちることを名詞で表現したものにすぎない。したがって,古佛撥遣法において,古仏像を修復することとなった理由として,「頗る破損」に,選択的な用語として「金色剥落」を追加した原告表現32は,ごく短く,平凡でありふれた表現であり,筆者の個性が表現されたものとはいえないから,創作的な表現であるということはできない。
6)古佛勸請法
原告表現35は,古佛勸請法の「謹しみ敬って此の尊像に・・・」の「謹しみ」の部分である。
証拠及び弁論の全趣旨によれば,乙3書籍の「古佛勸請法」の項の原告表現35に相当する箇所には,「敬此尊像ニ・・・」との表現があることが認められる。
上記認定の事実及び上記(5)ア認定の事実によれば,「敬って」の前に「謹しみ」を付加した原告表現35は,平凡でありふれた表現であり,筆者の個性が表現されたものとはいえないから,創作的な表現であるということはできない(なお,原告は,乙16手文が古仏撥遣法であり,古仏勸請法とは別の法則文である旨主張するところ,両者がその法則文としての性格及び役割等において異なるとしても,法則文一般における表現の創作性を検討する際に,そのような役割等の相違は格別問題とならないものと解すべきであるから,原告の上記主張を採用する余地はない。)。
(7)小括
上記(2)ないし(6)のとおり,原告が本件法則文と被告法則文との同一性を主張する箇所は,いずれも,創作的な表現であるとは認められないので,本件法則文と被告法則文とは,仮に,同一性を有するとしても,表現上の創作性のない部分において同一性を有するにすぎないから,被告法則文が本件法則文を複製したものであるということはできない。
したがって,原告による出版権侵害の主張は,理由がなく,本件法則文について原告が有する出版権の侵害を理由とする損害賠償請求も,理由がない。
2 なお,原告は,本件法則文についての同一性保持権が侵害された旨の主張をするが,原告は,Bが本件法則文を作成したと主張するものであることが明らかであり,原告が著作者であることを認めるに足りる証拠はなく,原告が本件法則文について同一性保持権を有するとは認められない。
したがって,原告による同一性保持権侵害の主張は,理由がない。
第4 結論
以上によれば,原告の本訴請求は,その余の点を判断するまでもなく,理由がないから棄却することとし,主文のとおり判決する。